自宅で死産した女性が「死体遺棄」の疑いで逮捕されたというニュースを見た。
女性は妊娠を医療機関に相談していた。それでも逮捕されたことに、熊本慈恵病院の院長が抗議したという。
この出来事を知ったとき、胸の奥に重たい違和感が沈んだ。
妊娠は、女性の身体の中で生じるが、ひとりでは起き得ないのは自明の事実だ。
それなのに、出産に関する責任は、なぜ母親だけに集中するのだろう。
死産の届出は法律上「父母どちらにも義務がある」とされている。
けれど、父親が不在だったり、妊娠を知らなかったりすると、その「不在」そのものが免責の理由になってしまう。
一方で、出産の場にいたとみなされる母親には、身体的にも精神的にも極限状態の中で「適切な判断」や「正しい手続き」が求められる。
母親が逮捕されると、
本来そこにいたはずの父親の存在や、負うべき責任が一気に見えなくなる。
まるで「妊娠は女性の問題で、男性は関係ない」と言われているような構造が、逮捕の過程に静かに潜んでいる。
こんな話をすると、ごくまれに「男性蔑視だ」という人がいるけれど、私は、女性が大変で男性が楽だと言いたいわけではない。
ただ、女性の身体に起きることを理由に、社会的責任まで女性に押しつける構造が、あまりにも自然なものとして扱われていることが気になっているだけだ。
産んだら育児の責任を求められ、
産まなかったら「なぜ産まないのか」と問われ、
死産したら「なぜ適切に処理しなかったのか」と責められる。
どの選択をしても、女性だけは“選択の結果”から逃れられないような感覚がある。
海外では、死産の届出を「両親の共同責任」と明確に定めている国が多い。
母親が孤立していた場合は、母親ではなく「支援の不足」が問題にされる。
死産後のケアも制度として整っていて、母親を罰する方向には向かわない。
日本では、支援よりも先に「捜査」が来ることがある。
相談した女性が逮捕されるなら、誰が安心して相談できるのだろう。
妊娠も出産も、女性だけのものではない。
少子化を問題視する社会ならば、なおのこと社会全体で支えるべきものだし、責任もまた、女性だけに押しつけられるべきではない。
この違和感をどう扱えばいいのか、まだ自分でもよく分からない。
胸の中に沈んだままにしておくには重すぎて、けれどその重さも時がたてば忘れてしまい、うやむやにしてしまう自分も容易に想像できる。今のこの考えを、言葉にしておく必要性を感じている。
