ジェンダーバイアス、それから達成感という錯覚


預かっていた小2の女の子を無事に引き渡すことができた。今日は早起きだったから、1人になったら昼寝をしようと思っていたのに、頭が冴えてまんじりともしない。よほど気を張っていたようだ。

その女の子が会話の中で「女の人は運転が苦手だから、ゆっくり運転しないと危ない」と言ったとき、胸の奥がざわついた。

ちょっと前にこの本を読んでいたからだ。

「女だから」

よく耳にしてきた言葉である。

自分の父親も車の運転をしている際、危ない運転を目にすると「女だから」と言っていたのを思い出す。そしてまだ、その考えが根強く残っていると運転していて感じることがある。

まだ、幼い子がそんな認識を持つのは、家庭の中で繰り返し聞いている言葉があったからだろう。ジェンダーバイアスは、制度や教育だけでなく、もっと身近な場所ーー食卓や車の中、親の口癖ーーそういうところで静かに育っていくのだと改めて思った。

「女の人は運転が苦手」その認識を持って大人になった女の子は、運転に対する苦手意識をずっと持ち続けるだろうし、女性ドライバーに対する目も厳しくなるに違いない。

親として、子どもへの接し方を今一度振り返りたいと思った出来事だった。

とにもかくにも、今日のミッションは無事終了だ。同僚へ女の子を引き渡した後の帰り道、ある感情がふつふつと湧いてきた。

達成感。

女の子を無事預かり終えたことに、私は達成感を感じていた。あれほど大変だったのに、終わってみれば「引き受けて良かったかも」と思っているではないか。二度と引き受けたくないと思っていたはずなのに、もう一度くらいなら預かってもいいかと考えている。

えっ?本当にそうなの?この達成感はなに?

そもそも達成感ってどうして感じるの?

達成感を感じることには、ドーパミンという神経伝達物質が関係しているらしい。目標を達成すると脳内で分泌され、快楽ややる気を生む。苦労してやり遂げた後には「報われた感」が強くなるという。「自分にはできた」という実感も達成感を深める要因になる。

困難を乗り越えた後の報酬に特別な価値を感じるのは、明日を生きるための仕組みなのかもしれない。「やれたからまた挑戦してみよう」そう思えなければ、生きていくのが難しい時が確かにある。生きるための錯覚。自分を自分で騙しながら、人はより多くの能力を手に入れていく。

でも、それを「錯覚だ」と自覚したほうがいい場合がある。例えば、今日の私のように。

今日感じた達成感は、たんに苦しみから解放された喜びだったに違いない。それなのに、達成感だと思いかけていた。それを達成感だと受け止めて成果に酔いしれてしまえば、自分の疲れや限界を見失ってしまうかもしれない。

そうして気づかないうちに、自分のバランス感覚を失ってしまったことが私にはある。一度崩した体調は、長めに寝ただけでは解消されず、ずいぶんと時間が必要だった。