ゴールデンウィークが近づくと子どもの頃の自分を思い出す。記憶の底にある香りや風、風景に出会うことが増えるからだ。
5月になると、栗の木の花の香りがどこからか漂い始める。花粉の季節が終わり、窓を開けて運転できるようになる季節は吹く風が心地よく、運転していて和やかな気持ちになる。そんなとき、不意に栗の花の香に気づく。どこかにある栗の木を探すと、100mほど離れた場所にぼんやりとした花を見つけることができる。
煙ったように咲く栗の花。その花が栗の花だと知ったのは、大人になってからだ。それまでその香りが、栗の花から漂ってくるのだとは全く知らなかった。
子どもの頃、栗の木に花が咲くこともその香りも、全く気にしたことがなかった。栗といえば秋。そして通学路。学校からの帰り道に落ちている毬栗をみつけると、戯れに靴底で上手に割り、その実を拾って帰っていた。
栗は落ちているもので、栗の木を見上げてみることなどなかったから、そこに花が咲くことなんて知らなかったのだろう。でも、その香りは記憶の底に確かに刻まれていたようだった。
生まれた場所を離れて一人暮らしを始め、5月の連休に久々に実家に帰っているとき、初めてその香りに気がついた。ものすごく懐かしい気がするけれど何の香りなのか分からない。育った家は裕福でも平和でもなかったからか、その香りをかぐと胸を塞がれるような気持ちになった。その後しばらくの間、その香りをあまり好きにはなれなかった。
栗の花の香に郷愁を誘われるようになったのは、最近のことだ。親から自立し、子を育て、自分の人生を自分で歩けていると言えるようになってから、その香りは親しげな香りになった。それはたぶん、親から離れた生活を送り、子どもの頃の私を客観的に見る余裕が生まれたからなのだろう。そうなるのには、ずいぶんと時間がかかってしまった気がする。
そんな風に、昔は好ましくなかったものが好ましいものへと変化したものが他にもある。
たとえば田植えが終わったばかりの田んぼ。
まだ稲が十分に育っていない田んぼは湖のように静かで、1日のうちのどの時間も心を和ませてくれる。
でも、月の夜が一番だ。月の光が弱く照らす夜の田んぼに、 カエルの声が響く。エアコンも扇風機もなかった生家に、かろうじてあった自分のスペースは学習机だった。その椅子でぼんやりと外を眺めていた私の姿が見える。その後ろに立って、あの日窓の外に広がっていた景色を今の私も見ている。
網戸越しに届く風が、鼻の奥をツンとさせる。厳しく苦しい生活から逃げ出したいのに、逃げ出すことができない毎日。子どもの自分はどこへも行けず、何にもなれず、親や周囲の人たちに負い目ばかり感じていた。
あの頃の自分の背中にそっと手を置く。大丈夫。大人になればきっと自分のことを誇れるようになる。そう伝えてあげたくなる5月の夜である。