違和感を感じたら


 同調圧力という言葉はたいていの場合ネガティブに用いられることが多い。しかし、この言葉にはいい面もある。

 たとえば、日本で震災が起きると、人々が暴動などを起こさず、静かに並んで物資を受け取る姿が他国から称賛されることがある。日本に住む人は礼儀正しいとか、我慢強いとかいう賛美の言葉が並ぶ。

もちろん、そのような要素が日本にはあるのかもしれない。しかし、静かに列に並ぶ心情を促す最大の要因は、同調圧力によるものが大きいのではなかろうか。周りの人が並んでいるから並ぶ。周囲の人々が文句を声高に叫ばないから、自分も叫ばない。そのように周囲から自然と受け取る圧力によって、震災の時でさえ、自我を押さえて行動する人が多くなる。それによって秩序は保たれる。同調圧力がうまく働いている場面だろうと思う。

先日、スマホでニュースをチェックしていて、ひどく驚いたことがあった。それは西日本新聞の取り上げていたニュースだった。記事の見出しは

修学旅行の風呂上がり「水滴チェック」あり? 裸の生徒を教員が目視検査…中学校は「必要な指導」

というものだった。出先だったこともあり、初めは、その見出しを認めても、気にせず画面をスクロールした。でも、微妙な引っ掛かりを感じて、帰宅後その記事を見直してみたのである。そこには驚きの事実が書いてあり、果たしてこれは現在進行形の事実なのかをまず疑った。

 小学校や中学校で、「水着で隠れるところは人に見せないようにしましょう」という指導が始まったのはいつからだったろう。はっきりと思い出せないということは10年くらい前からかもしれない。この場合、「人」というのは自分以外の人すべてを指すはずだ。親だったらいいとか、きょうだいだったらいいとか、そんなことは決してない。もちろん、時と場合によっては見せてもいい場合や、見せなければならないこともあろうが、大事なのは、本人が嫌だと感じているなら、見せない選択肢を取れる状態を保つことである。にもかかわらず、修学旅行の入浴時に裸の生徒を教師がチェックしているという記事を俄には信じられなかった。当然そこには、見せない選択肢は存在していなかったはずだ。

 西日本新聞の記事を見て、まず感じたのは、「これは、特殊な事例を扱った記事であろう」ということだった。まさか自分の子どもはこんなことはされていないだろうと思った。だから、気軽に聞いてみたのだ。「こんな記事があるんだけど驚きだよね」と。すると、今年修学旅行へ行った小学生も、昨年修学旅行に行った中学生も、「それ、あったよ。キモかった。」というではないか。驚いた私が「えっ?!どうして、言わなかったの?」と尋ねると子どもは「キモかったけど、それが普通なのかと思った」と言うのである。

 つまり、明らかに違和感を感じていたのに、皆が何も言わないから我慢するしかなかったようだった。言えなかったのは、自分だけがそう感じているのだと思たからだが、それは違うと伝えた。

 おかしいのは、どう考えても、裸のままの生徒をチェックすることだ。

 私はこの事実をどれだけの保護者が知っているのか疑問に思い、グループLINEで共有した。もちろん、共有する前はためらった。皆が何も言わないところで急に発言するのは色々なリスクがある。そもそも、同じ地域に住む保護者というだけで、顔を知らない人の方が多いLINEグループでもあった。

 1番のリスクは私が変わり者だと嫌がられることだろう。もしかしたら、もうそう思われているかもしれない。そう思われるのは避けたかった。それでも、このニュースは多くの保護者が知っておくべきではないかという気持ちが勝ったのである。実際、この記事を目にするまで、私は子どもの受けた扱いを全く知らなかったのだから。

 LINEグループには、皆がなんとなく思っているルールがあると思う。それは「無闇に返信しない」ということだ。自分の返信や他者の返信が瞬時にいろんな人の目に止まるのが気になる。自分以外の誰かが何かを言ってくれるはず。みんなが返信すると通知だらけになって迷惑だ。単に、返信する時間がない。おそらくそんな理由から、多くの人はグループ内での返信はしない。私も概ねそうだ。

 今回も、だいたいそうだろうと思っていた。

 80人弱の人にこのニュースを共有した。読みたい人は読んでくれればいい。そのくらいの気持ちだった。

 およそ80人のうち、リアクションのみした人が2人。グループ内で返信した人が5人。個人LINEで返信した人が1人だった。まあ、そんなものだろうと思う。

 興味深かったのは、返信してくれた人の捉え方が、きれいに分かれたことだった。

5人のうち、

「衝撃的なニュースだ。子どもに確認したらそうだと言っている」と言った人が1人。

「確認したら、そうだったようだけれど、別に嫌じゃなかったと言っている」と言った人が2人。

「うちの子は、そんなことはなかったと言っている」と言った人が1人。

そして

「同じ市内の学校に勤めているけれど、断じてそんなことはない、こんなニュースを安易に共有するな」と怒りをあらわにした人が1人だった。私は、自分の子が通う学校のことを問題にしたのだが、この人にはどうやらうまく伝わっていないようだった。

 異なる意見の人でも「バンザイなんてさせていない」と共通して言う部分もあった。その人たちは、記事の趣旨を読み違えてしまったのだろう。「水滴チェック=裸でバンザイさせること」と解釈したようで、その記事が一番何を言わんとしているのか、大人でも理解するのが難しい場合があるのだと思い知らされた。私が違和感を感じたのは、記事の主題である「裸のまま水滴チェックする」ことであり、「バンザイさせた」かどうかではない。

 ここでの問題は、裸のままのチェックは許すべきでないと断じていうべきではないかということだ。タオルで局所は隠せるという人もいるかもしれないが、フェイスタオル一枚で、局所を全て隠すのが不可能であることはいうまでもないだろう。

 加えて問題にしたいことは、数の多少を問うべきではないということだ。みんなが気にならないことならば、嫌だと思うことも我慢しなければならないというならば、マジョリティのみに焦点を合わせて発展してきた、この世の中は何も変わらない。多種多様の人がいるのが当たり前の世の中で、私たちは、共生を目指し生活する。それがこれからの社会で求められている姿勢だろう。

 さらに加えて言うならば、現在から見ると異常な実態がまかり通っていた過去があることを思い起こすべきだということだ。

 たとえば、ブルマ、ビキニタイプのスクール水着。今の子どもたちがあんな物を身につけて、体育の授業を受けなければならないと言われたら、多くの保護者が反対するはずだ。あるいは、私が小学生だった頃、学校で実施されていた健康診断では、男子はパンツ一丁、女子は上半身裸で移動し待機させられていた。高学年の女子は胸が膨らんでいる子ももちろんいた。そんな子は手で覆って移動するよう指導されていた。それが、いかに異常な事態かは説明するまでもないはずだ。

 当時は、それが効率がよく、手間を省く方法だと考えられていたのかもしれない。つまり、大人の都合に合わせて、子どもの扱いは軽く扱っても良いとみなされていたのである。

 今回のことはどうだろう。「水滴チェック」は大人の都合ではなかったか。

 同調圧力は時として多くの人の身を助ける。けれど、それが見逃せない場合もやはりある。今回のニュースも、多数派を推す気持ちをグッと我慢する必要がまずあるはずだ。嫌だと感じた少数派の意見を汲むことがやはり必要なのである。そうでなければ、私たちはいつまでも多数派のお面を被り、平然と少数派の人々に無理難題や苦しみを押し付け続けていくことになる。そしてある日突然、自分が少数派に転じた際、その苦しみから逃れられたくても逃れる術を持てない現実に直面することとなる。そんな現実に向き合わなければならない。

 少数派に考慮する社会は息苦しいと多数派は言う。でも、考慮しなければ、少数派の苦しみはなくならない。誰かに押し付けた苦しみを、社会全体で背負う。そうするしか道はないと思っている。

 私が通った保育園は、夏になると真っ裸でプールをさせられた。幼い私は、それがどうしても嫌だったから、なんとかしてズル休みをしようとない知恵を絞っていたのを思い出す。こんなに恥ずかしい扱いを、なぜ自分が受けなければならないのか。周りの子供達はなぜ、この違和感に気づかないのか。園児だった私はとても不思議で仕方がなった。子どもだからいいのだ、はもうやめよう。その保育園も今はすっかり水着着用になっている。当たり前だ。どこで誰が、どんな目で見ているかなんて、分からないのだから。