人は私のことをちゃんと分かってくれているだろうか。私の言いたいことはこの人に正しく伝わっただろうか。
そう不安になることがある。いや、そもそも、全てを伝えることなんて無理だとうっすらあきらめている。
自分が誰かに対して「わかった」と簡単に思うのはやめたほうがいい。自分以外の人間を完全に理解することなんてできない。そのことを知っているはずなのに、私はすぐにそれを忘れてしまい、自分の尺度だけで相手を判断してしまう。そして、相手が自分の解釈外の行動をしたとき、人付き合いは難しくわずらわしいと思ってしまう。
そのことがよく分かる物語だ。
他者を理解するためには、それぞれが置かれている環境が多岐にわたることを知らなければならない。狭い視野では相手のことを理解するのは難しい。私の経験値(それをここでは文脈と呼びたい)ではあなたのことを理解できない可能性がある。理解するためには、相手の文脈に当てはまる文脈を増やすしかない。文脈を増やすには学ぶことが重要だ。
理解力は読解力と言うこともできる。書かれている文章を正しく理解する力と他者理解は同じことだ。文章も他者も全てを示してくれないことが多い。伝えられたものの中に、書かなかったこと、言わなかったことが含まれている。それを読み取ろうとすることが、理解力でもあり読解力でもある。
目の前にある文章を、書かれなかったことも含めて理解することは簡単ではない。文字を読めて、単語の意味が分かっても、間違って読み取ってしまうことがある。つい、自分の尺度だけで判断してしまい、理解が不十分になることがある。読める文章でも、皆が簡単に理解するのが難しいから「国語」のテストは成り立っている。
読解力がないと感じている人は、それは簡単には身につかないし、身につける方法も分からないと感じているはずだ。生まれ持った素質がないのだから、自分には無理だと感じるかもしれない。
でも本当にそうだろうか。忘れてはならないのは、読解力は常識力でもあるということだ。
日本語で書かれた文章は、日本文化の背景を知らないと読み取れない場合がある。
例えば「電車の中で大声で通話している男がいた」という文があったとしよう。日本での生活が長い読み手は、この男の異常性を読み取ることができるはずだ。この男に関して、「大声で通話している」こと以外の描写がなくとも、そう読み取ることができる。なぜなら、電車の中で通話することも、大声で話すことも、常識的に考えてやってはならないことだからだ。
しかし、こんな簡単な文でさえ、現代日本社会の「電車の中では通話するべきではない」という常識を知らなければ、正しく読み取ることは難しいのである。
文章を正しく読み解く過程は常識力を身につける行為でもある。世の中のことを知れば、あなたの読解力もいくらか上がる。
自分にはある程度の常識がある。世の中にはいろんな境遇の人が暮らしていると知っていて、義務教育で9年、高校で3年、皆と同じように国語を習ってきた。それでも自分は読解力がないと思う。それは何が原因なのか。読解力を鍛えるために必要なことは何だろう。
文章を正しく「わかる」ためには文脈把握力が必要なのだという。そして、簡単に「わかった」と思わないことも。
要所要所で引用されている例文によって、「わかる」ために必要なものが何なのかが理解しやすい。「わかった」とすぐに思ってしまうことが、正しい理解の妨げになってしまうという。
すぐに「わかった」と思わない読み方を全くしない人がいた。
「走れメロス」さえ3時間5分かけて読んでいくその姿に、感動を覚える。すぐに「わかった」と思わないようにするべきだということにも納得させられる。
でも、毎回こんなに時間はかけられない。すらすらと読みつつも、ただしく「わかる」文脈把握力はどうやったら身につくのだろう。
少し前に『百年の孤独』を読んだ。
今年文庫版が出て、売れに売れた本だ。なかなかの分厚さ。これくらいの長さなら普段から本を読んでいるから、難なく読めるだろうと思って読み始めた。結果、読み始めて数ページで絶望した。よく分からないのである。何とか最後まで読みはしたが、完全に負けた気がした。これを面白いと思って読む人のことが、理解できないと思ってしまった。
その後『「百年の孤独」を代わりに読む』を読んで、自分の知識と体験の少なさが、『百年の孤独』をつまらなくさせたのだと思い知った。
「興味を持てる」と「理解ができる」は繋がっている。興味があるものは面白い。面白いと理解が進みやすくなる。
自分の中には、『百年の孤独』に通じる体験が少なかったのだ。つまり、私の文脈が少なくて、小説の内容と自分の文脈を関連付けることができず、興味を持って面白く読むことができなかった。それだから物語が理解できなかったのだと思い知った。
読解力を鍛えるためには、私の文脈をたくさん持つことが重要だ。でも、私の文脈を持つだけでは不十分である。文章を読みながら、それに関連する自分の文脈を取り出す練習が重要なのだ。自分と関連付けて、書かれている内容に興味を抱く練習が大切なのである。それが、文脈把握力を育てる。
では、私の文脈はどうやったら増え、目の前の文章と関連付けができ、その文章に興味が持てるようになるのか。
まずは体験を増やすしかない。知っていることに、私は興味を持てる。知らないことを知ろうとすることでも興味は持てるが、知っていた方が圧倒的に興味は持ちやすい。
体験のやり方は色々だ。様々な人と会う。話す。見る。でも、出会いには限界がある。自分の体は一つだし、時間も有限だ。自然に触れたり、初めてのことをしたり、知らない土地にいくことも有効だが、日常を過ごしながらではやれないことの方が多い。映画や、ドラマもいいだろう。でも、映像はその媒体が増えたと言っても、いつでもどこでも見られるわけではない。倍速にも限界がある。
そんなときは、やはり本だ。偏らない読書。この世には、一生かかっても読み尽くせないジャンルの本がある。本はどこでも読める。遥か遠くの国のことでも、出会うことのない人とも、本では容易に知り合うことができる。新聞も現代社会のことを知るためにはいい媒体だ。ただ、新聞は購読制が基本だから、一紙しか読まないのが普通で、そこに偏りが生じるという欠点もある。
あなたが学生だったら、授業が有効なのだと考え直してほしい。授業なんてつまらない、教科書に載っている文章を読めば聞かなくても十分。でも、思い出してほしい。そう「わかったつもり」になるのは「わかる」ことの妨げになると。
一読して読めたと思っても、授業を通して新しい文脈に触れることで、正しく理解することが可能になる。でも、それは主体的に聞いてないと得られるものではない。
読めるというのは分かると同義ではないのに、多くの人は同義だと感じてしまう。だから、国語(特に現代文)や社会の授業を内職しながら片手間に聞く。しかし、繰り返すが、読めると分かるは同義ではない。読めると思ってしまうことが分かるを邪魔してしまっていることがある。分かっているつもりに陥らないように授業に臨むことが、読解力を身につけるための第一歩だ。
主体的に参加した授業で、あなたはこの文章に書いてあるこの部分に当てはまる自分の文脈があるか、それを探さなければならない。それがなければ、なんとか新しい文脈を手に入れようと、授業に耳を澄ましてみる。あるいは、書かれている内容そのものを、自分の中に取り込み文脈とする。または誰かの意見や、教師の話が、新しい文脈をもたらしてくれることがある。知ってる体験が増える。興味の幅が広がる。世界の複雑さに思いを馳せる。その作業が、あなたの読解力を高め続ける。
初めは自分の文脈に近い文章から国語の教材は用意されているはずだ。だから、自分の文脈を取り出すのはそれほど大変ではない。書いてないこともそんなに多くない。でも、学年が上がるにつれ、学ぶ文章は自分の文脈から離れてくる。その上書かれない内容も増える。けれど、私自身も文脈を取り出す練習を怠っていなかったら、あるいは、自分の文脈を増やす生活を送っているならば、何とか自分の文脈に近づけて、書かれてないことも含めて正しく読むことが可能になっているはずだ。
高校になったら、より専門的で自分の文脈から遠い文章に取り組むようになる。日本の学校では、あまり時間が割かれないが、韻文は特にそうだ。詩や短歌や俳句は、書かれていない部分を正しく読み取る鍛錬になる。
評論分も小説も簡単には読み取れなくなるが、その最たるものが古文漢文だと言える。時代や習慣の隔たりのある文章は、自分の文脈から遠く離れている。でも、そんな文章でも文脈を取り出す練習を続けていれば、よく読むことが可能になる。
他者理解は練習が重要だということだ。そしてその練習は時間がかかる。いや、時間をかけるしかない。短期間では身につかない。目の前にあるものに集中して取り組み続ける。それしか読解力を高める方法はないだろう。