私はどうやら、街に分身をばらまいているらしい。
というのも、ここ十年の間に私に似た人が八か所で目撃されているからだ。それぞれの場所は10キロずつ離れていて、どう考えても同じ人が移動しているわけではない。まるで地図の上に点を打つように、私の分身分布図が広がっている。
確率論でいえば、人間の顔は無限に見えるようでいて、実は「よくある組み合わせ」が多いらしい。研究によれば、自分に似ている人は数百人に一人程度存在するという。自分の住む地域に、似ている人が何人かいても不思議ではないのだ。しかもそのうち数人が、私の行動範囲に現れる確率は、宝くじよりずっと高い。
私の目撃情報のうち面白いと感じるのは、目撃した人が「絶対に私だった」と断言するほど似ていることだ。となると私は「ありふれたタイプ」だといえるのかもしれない。
けれど一方で、一度会った人には「顔を覚えられる」ことが多いという事実もある。つまり私は「ありふれているのに印象に残る」という矛盾を抱えている。
去年まで職場に私によく似た人がいて、まだ私のことをよく知らない人はよくその人と私を間違えていた。でも、私とその人をよく知っている人からすると、二人は全く似ていないそうである。
初対面ではパターン認識で「似ている」と感じてしまうけれど、関係性が深まると、細部や雰囲気を含めてその人を覚える。だから「似てない」と言えるようになる。
以前読んだ池谷裕二さんの本には「もし脳が忘れることができなければ、前髪が少し動いただけで目の前の人が誰か分からなくなる」というようなことが書かれていた。忘れることは、私たちが「何となくその人だ」と感じるために必要な機能なのだ。仮に、私たちの脳が完全記憶型だとしたら、日々変化する些細な違いに惑わされ、日常生活に支障をきたすだろう。細部を忘れることで、全体の雰囲気や印象をつかみ、「この人はこの人だ」と把握していけるのだ。
忘れることは、社会を支える基盤でもある。人は細部を忘れることで「同じ人」「同じ道」「同じ場所」などと認識し続けられる。もし忘れることができなければ、毎日が新たなものとの出会いの場であり、何事にも慣れることができず社会は安定しないだろう。忘却は、私たちが人間関係を築き、継続するための静かな支えなのだ。
結局、分身分布図は私の存在の二重性を映し出している。ありふれているのに、忘れられない。似ている人がいるからこそ、私の違いが際立つ。そして「忘れること」があるからこそ、社会は穏やかに続いていく。そら似は偶然の遊びであると同時に、忘却が支える人間社会の証でもある。
