わたしという存在への不可思議さ


唐突に2時間半ほど時間が空き、子どもと美術館へ行くことにした。平日なのに、美術館はけっこう混んでいて、ゆっくりと移動しながら展示を見ていたら、子どもの具合が急に悪くなった。
顔色が真っ白になり、座り込んで動けずどうすることもできない。すぐ近くにいた職員さんが気づいてくれため、車いすを借りて救護室でしばらく休ませてもらう。

たぶん低血糖だと思うと伝えたら、水とアメをくれた。アメは三種類あったが、そのどれも見たことがないような不思議なアメだった。「美術館だから不思議なアメを用意しているのだろうか」そんなどうでもいいことを考えている間に、子どもの顔色が戻り、歩けるようになったので、お礼を伝え無事に帰ることができた。

前にも似たような症状があり病院で診てもらったけれど、特に異常は見つからなかった。

子どもといえども、もう大人と言える年齢だから、あれこれ口を出さずにいたのがいけなかったのかもしれないと思う。
食事の間隔を空けすぎないこと、外出前に軽くエネルギーを入れておくこと、飴やブドウ糖のような補食を持ち歩くこと。今回、そのどれも、子どもも私も準備していなかった。

子どもが急に体調が悪くなると、私はいつも焦る。そして焦るだけで「何もできない」と感じる。
親なのに、頼られるべき存在なのに、自分のふがいなさにイライラしてしまう。
誰かに代わってほしいと思う。

そんな私なのに、子どもは私といることで安心しているようだ。

でも、私はそんなに立派な人間ではない。
親としての私と、ただの私とのあいだに、いつも小さなズレのようなものを感じている。

そのズレを「不思議だな」と思う。

私が親であり、頼られるべき存在だという不思議。
自分がいつの間にかそんな「親」という役割をやりこなしている不思議。
世の中にはたくさんの“親をやっている人”がいて、みなそれなりに「親」であることの不思議。
「大人ならしっかりするべき」という社会の認識が、実はとても曖昧なもののうえに成り立っている不思議。

私は気づいたときにはすでに、「わたしであること」そのものが不思議だと感じる子どもだった。
だから、
親である自分
大人としての自分
ただの自分
そのどれもが、今でもどこか不思議に感じられる。

なんでもうまくやりこなせるのに、やりこなしている自分に疲れてしまうときがある。
そんなとき、「なぜ、私として今存在し得ているのか」「これは自分の力のおかげではないだろう」と感じるのだ。

その瞬間に立ち上がる“わたしの不思議さ”をなんと言うべきなのか、今の私にはまだ分からない。

ただ、親であることは、訓練された役割ではなく、「わたし」という存在が日々の中で少しずつ引き受けていく営みである気はしている。

その営みの中で、揺らぎ続ける自分とこれからも過ごしていくうちに、新たな別の「わたし」の顔と出会っているのかもしれない。