今日は仕事が休みで、朝からゆっくり本を読んでいる。
夕方にはジムに行きたいから、それまでに家事を片づけるつもりだ。
静かに自分のペースで流れていく一日が好きだ。からだを動かすのも嫌いではないけれど、小さいころからずっと、家で過ごすひとりの時間を大切にしてきたなと思う。
次の本を読もうと手に取ったら、ドックイヤーがあることに気づいた。
面白そうな本だから読みたいと思ったのに、本を開かず机の上に戻す。
私は古本も古着もまったく気にならない質なのに、
“ドッグイヤーのついた本”はものすごく気になるのだ。
手に取った本にそれを見つけると、読む気が一気に失せてしまう。
折られた部分を戻せばよいのだろうけれど、借りた本の場合そういうわけにもいかない。それなのに、借りた本なのだから読まないわけにもいかない。でも、読む気が起こらない。困ってしまう。
どうして、ドッグイヤーがこうも気になるのだろう。
それは、折れたページに「読むリズム」が乱される気がするからかもしれない。
折ってあっても、紙の重量は変わらないはずなのに、折られたページがわずかに重く感じてしまう。
ひとりきりの読書の世界に小さな段差ができる。
紙の手触りは、本を構成する重要な要素だと感じているから、そのわずかな乱れに集中が途切れてしまう。
あるいは、折り目が「前の持ち主の意図」を強く残してしまうからかもしれない。
「ここを大事だと思ったんだよ」と、誰かの読み方がページの形として迫ってくる。
その“押しつけがましさ”が、私の読みの流れに入り込んでくるのに耐えられない。
不思議なのは、ラインが引いてあってもさほど気にならないということだ。ドックイヤーより目立つラインだったとしても、気にすることなく読むことができる。
ラインは紙の形を変えないから、読みの身体性を乱さない。
視界には入っても、手触りの世界には踏み込んでこない。
だから許容できるのかもしれない。
でも、同じラインでも、身近な人がつけたラインではまた話が違ってくる。
身近な人の痕跡は、距離が近いぶん“侵入”として感じられる。
知らない誰かのラインはただの影だけれど、身近な人のラインは、その人の価値観や読み方そのものとして無視できない存在感がある。
読書という「自分だけの空間」に、その人の存在が入り込んできて、本の内容から意識が逸れてしまう。
自分の領域に勝手に手を入れられたような、生々しい違和感が残る。
私にとっての読書は、「内側へ沈む時間」だ。
その時間を、誰かが読んだ痕跡によって乱されるのが嫌なのだ。わがままな言い分だ、完全に。でも、読書くらい、わがままであってもいいだろう。
こうして言葉にしてみると、
自分がどれだけ“読書という空間の境界”を大切にしているかがよくわかる。
本を読むという行為は、ただの趣味ではなく、
自分の内側を整えるための、代えられない時間なのだ。
