お金は不思議


生きていくためにはお金が必要だ。

生理的欲求を満たすためにも、心理的欲求を満たすためにも日々お金が必要な仕組みなっている。

そのことを不思議だと思うことがある。

私はお金の束そのものを欲しているわけではない。けれど持つお金の数字が減ると、心がざわつく。お金はただの道具であるはずなのに、それが減ることに焦燥を覚える。その違和感は、日々の暮らしの中で私を離さない。

生きるためにお金は必要だ。食べ物を買い、住まいを維持し、安心や自由を得るために。けれど、それは「絶対的な価値」を持つように見える偶像にすぎない。

ジンバブエのハイパーインフレを思い出す。2000年代後半、ジンバブエでは100兆ジンバブエドル札が発行される事態になった。ジンバブエドルはパン一斤すら買えないほどに価値を失った。

制度が崩れた瞬間、お金はただの紙切れに過ぎなくなる。ジンバブエドルの持っていたお金としての三つの機能――価値の尺度、交換の手段、価値の保存――がすべて崩壊したとき、人々は米ドルや南アフリカランドに頼り、物々交換をすることになった。

お金は「信用」によってのみ支えられている。その信用が失われれば、幻想は一瞬で消えるのだ。

『きみのお金は誰のため』に書かれているように、お金の総量はいつも変わらない。誰かが増やせば、誰かが減る。にもかかわらず、私たちは「増やす」ことを人生の目標にしてしまう。お金という幻想を抱え込んでいる人を立派な人間だと讃え、幻想の価値が高い国を立派な国だと思い込む。私たちはうっすらその不確かさに気づいているのに、幻想を基準に生きている。

その幻想に、私も日々踊らされている。減ることに焦燥を覚え、増えることに安堵する。

けれど、それは本当にあるべき姿なのだろうか。

お金は安心を買う道具なのか、それとも不安を増幅させる偶像なのか。私たちは何を信じて生きているのだろう。お金か、それともその背後にある制度なのか。

お金は、不満を解消する仕組みにはなり得なかった。それでも、お金以外の仕組みを人間は作れなかったのだ。

なんて人間は未熟な生き物なのだろう。お金の幻想に踊らされる自分の不確かさを見つめるとき、私は人間の未熟さを映す鏡を覗いているような気がする。

お金は不思議だ。制度がある限り、私たちはその幻想を信じて生きる。けれど、その幻想が揺らぐとき、私たちの生き方そのものが問われる。私はこの違和感を忘れずにいたい。

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