小学校2年生の子を預かった件が、心の中でくすぶっている。頼まれたときから感じていたモヤモヤが、終わったはずの今も解消されないままだ。
その感情に追い打ちをかけているのは、「お礼」だ。
同僚からのお願いを断れず、早朝から往復2時間以上かけて送迎し、6時間かかりきりで子どもを預かった。その対価として受け取ったのは、小さめサイズの手作りバナナケーキ一本だった。
受け取った瞬間、私の表情はあまり柔らかくなかったかもしれない。自分でも、戸惑いが顔に出ていたのを感じた。
そして二日後、「ガソリン代をいくらか払った方がいいよね、いくら払えばいい?」と突然言われた。
その言葉に、さらに複雑な気持ちが重なった。
ガソリン代がいくらか——おそらく数百円程度だろう。けれど、送迎や預かりに費やした時間と労力は、その金額では到底測れない。距離や燃費を計算する手間も、気持ちの上では重い。
「お礼」とは、相手がしてくれたことを自分の側から考え、誠意をもって返すものではないだろうか。
ガソリン代はいらないけれど、いくらか計算するべきなのは頼んだ側のはずである。そんな困惑が顔に出ていたのだろう。「ガソリン代は数百円だから必要ないよ」と伝えたら、その夜同僚から初めて電話がかかってきた。
バタバタしていた時間帯でもあり、電話の内容も前向きな内容でないことが分かっていたから取る気にならず、急用ならばLINEでもするだろうと電話は取らずにいた。取れないこともあるのが電話だ。それに、これ以上自分の時間を相手に取られたくない、そんな思いもあった。その翌日。
仕事をしていたら暗い顔した同僚が席に近づいてきて「私なにか怒らせること言ったかな。電話も出てくれないし」と言われてしまう。どうやら、こちらの対応がよくないことにしたいようだった。もうお手上げだと思った。
手作りの品が「お礼」として成り立つ場面は、関係性や状況に左右される。親しい友人との間であれば、気持ちが伝わることもあるだろう。けれど今回は、私は相手を「同僚」としてしか認識していなかった。一方で、相手は私のことを「友達」だと思っていた可能性はある。その認識のズレが、違和感の根底にあるのかもしれない。
もし送迎と預かりをサービスとして依頼すれば、その対価は数百円では済まないはずだ。手作りのバナナケーキの単価は分からないけれど、数千円にならないことは分かる。恐らく日持ちのしないバナナケーキの大半は、冷蔵庫にカットしたまま残っていて、私以外は手をつけていない。
試しに「お礼」について生成AIに尋ねてみた。すると、「手作りの品をきれいにラッピングし、メッセージカードを添えると感謝の気持ちが伝わります」といった回答が返ってきた。
確かに、バナナケーキはきれいにラッピングされ、メッセージカードも添えられていた。でも、関係性の薄い相手からもらったそれに、私は価値を感じることができなかった。形式だけの「ありがとう」よりも、相手の立場に立って考えられた品と行動のほうが、ずっと心に響くと思ってしまった。
今回の件で、相手を責めたいわけではない。ただ、自分の中に生まれた違和感を丁寧に見つめ、言葉にしておきたかった。
「お礼」とは何か。関係性とは何か。
その境界線を、静かに考え直す機会になったように思う。
あれから、同僚の姿を見かけるたび、話しかけられない距離を保つ自分がいる。
厄介なお願いごとをこれ以上頼まれないような距離が、自分の中のモヤモヤが消えてくれる時間が、もう少し必要だ。