「ちょっと」の幅


子どもが幼稚園に通っていたときのことだ。

仕事で幼稚園へのお迎えが間に合いそうになかったときに、義母に車でお迎えを頼んだことがある。お迎えの時間帯は駐車場が混雑するので、安全のため「ちょっとだけ早く行くと混雑しないですよ」と、義母に伝えていた。
その「ちょっと」は、私の中では2、3分のつもりだった。
でも義母は、30分早く幼稚園に迎えに行ってしまった。

当然、園からは「まだお迎えの時間ではありません」と言われ、
義母は出直すことになる。よほど嫌な思いになったのだろう、
「ちょっと早く行けばいいと言われたから行ったのに」と、不満げに言われてしまった。

衝撃だった。
30分は私の中では「ちょっと」ではなく「かなり」の時間だ。
でも、義母にとっては「ちょっと」の範疇だった。

付き合いの浅い義母の考え方を、私は全く理解できていなかった。自分の感覚を伝えるのは難しい。齟齬が生まれるのが嫌で、義母にお迎えを頼むことはやめた。

言葉、特に抽象的な言葉は、使う人の時間感覚や経験に根ざした意味合いを持つ。
「すぐ」「ちょっと」「あとで」――
どれも、誰かにとっては数分であり、数時間になることがあるだろう。

そして、言葉の曖昧さ以上に、「自分の常識」が他人には常識ではない可能性を、私はもっと意識するべきだったのだ。

車での送迎に慣れている私にとって、
駐車場の混雑は「数分の差で避けられるもの」だった。
でも、義母にとってはそうではなかったのだろう。

そのずれは、私が言葉と感覚の間にある距離を見落としたから生まれたのだ。

そしてその見落としは、ときにすれ違いや違和感、さらには不信感を生んでしまう。
「なんでそんなことを言うのか」
「どうしてわかってくれないのか」

ほんのわずかな言葉の捉え方の差異から生まれる思い。

的確な言葉をつかえる人になりたいと思う。
この時代の感覚や、世代ごとの価値観の違い、
そして、相手がその言葉をどう受け取るか――
それらを想像しながら、言葉を選び取れるようになりたい。

曖昧な言葉は、やさしさのようでいて、
ときにすれ違いを生む。
そして、自分の「当たり前」が通じないとき、
人は少し戸惑うことになる。

義母の「ちょっと」が30分だと知ったとき、私は何も言えなかった。
言葉の幅も、常識のずれも、責めることはできないものだと思った。

どんな言葉を使うのか。相手のことを真に理解して言葉は選ぶべきだ。

難しい言葉は、相手との距離を保ち、責任を回避させ自分を守ってれる。でも、相手のことを考えるならば、簡単な表現で伝えるほうがいい。それは子どもに対するような砕けた言い方ということではない。そのことを、これまで見落としてきたなと思う。ですます調で優しい表現を使えるようになることは、誰と接するときも有効なのである。


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