食べもののCMで、子どもが「お母さん、おかわり!」と笑顔で言う場面を未だに目にする。
湯気の立つ食卓、明るいキッチン、優しい母の微笑み。
一見、ほほえましい日常の一コマ。けれど、私はその場面に違和感を覚えてしまう。
なぜ「お母さん」なのだろう。
なぜ「おかわり」は、母に頼むものとして描かれるのだろう。
なぜ「自分でよそう」でも、「お父さんに頼む」でもなく、母が当然のように応じる構図なのか。
嫌味な言い方だけれど、お茶碗はさほど重くないし、お米をよそうのには大した技術は必要ない。おかわりしたけりゃ自分でやればいい。こんな家庭まだあるの?と見るたびに鼻白む。
社会心理学では、形成された「ステレオタイプ」や「役割期待」が、日常の判断や反応に影響を与えるとされる。
いつからなのだろう。「母親は食事を作り、世話をする人」という前提が生まれたのは。そしてそれがいまだに残っているのはなぜだろう。私たちはそれを粘り強く否定してきたはずなのに、こうやってCMの中で自然なものとして再生産されていく。
ぼんやりと眺めているうちに刷り込まれるその構図を、何の疑問もなく受け入れてしまいかけている。
それが「心のクセ」の一つになっていく。
「ステレオタイプや偏見をなくすことは難しいものの、そこから差別を生じさせないために有効な手段について現在も継続して研究が行われている」
その事実に救われる思いがする。私の中にも偏見はある。思わず口にした考えが、誰かの心をえぐることがある。なぜ、そう発言したのか、そもそもなぜ、そんな考え方しかできなかったのかと自分に問いかけたいことがある。そんな自分を是正してくれる知識が欲しいと感じることがあるから。
「犯罪の責任は加害者にあるのに、被害者の落ち度を非難したくなるのは、自分が信じる安定で秩序だった公正な世界の存在を否定したくないという思いがあるからだ」という指摘にもはっとさせられた。
この違和感を「ことば」にすること。
それが、私自身の「心のクセ」に気づく第一歩であり、誰かの気づきにつながるかもしれない。
ただ、「なぜそう描かれるのか」「なぜそれが自然とされるのか」を問い直したい。
そして、私たちの中にある「役割の前提」を、そっとほどいていきたい
でも、「ことば」にすることは勇気がいる。特に大勢に向けて発信すれば、何かしらの批判を受けるだろうから。自分が多数派なときはいい。でも、「ことば」にしなければならない場面は、少数派にいるときの方が多いものだ。
それでも公正な世界を願う気持ちと、現実の複雑さのあいだで揺れながら、私たちは問い続ける。
日常の中にある違和感を見逃さず、それを「ことば」にすること。
それは、静かで根気のいる作業だけれど、確かに意味のある営みだと思う。
