生き物について考えていること


今勤めている場所は住んでいる県の中では都会に当たるところだが、住んでる家があるところはそこから車で1時間ほどかかる自然豊かな場所である。

といっても、観光地でもあるその場所は、私が生まれ育ったところに比べると、随分と整備された人口も多い土地である。

子どもの頃の私は、文字通り野山を駆け巡る子どもだった。好んでそうしていたわけではなく、そうするくらいしか遊ぶ手段がないほど田舎だったのだ。

近所に同年代の友達は少なくて、特に同じ学年の女子は1人もいなかった。遊び相手は姉妹しかおらず、三姉妹の真ん中だった私は、犬を引き連れいつも姉妹で遊んでいた。自然は生活と地続きにあって、私は自然によって作り上げられていった部分がある。

それだからか、随分と大人になってしまった今、都会に新しくできたお店の情報を知るより、生き物の生態や地球の今に関する情報に興味がある。

大学も今現在の仕事も文系だが、購読している雑誌の一つは「ナショナル ジオグラフィック日本版」だし、いつも何冊か同時に読む本の中に必ず一冊は、自然や生物に関する本が含まれている。今読んでいる漫画は『ダーウィン事変』だし、最近強く印象に残った本のは『今日から始めるビーガン生活』『野生生物は「やさしさ」だけで守れるか?』だ。

環境問題が声高に言われ始めたのは私が小学生の頃だったと思う。それまで校庭の焼却炉で燃やしていたゴミにより「ダイオキシン」というものが発生することが分かり、焼却炉でゴミを燃やせなくなった。身近な環境汚染に触れた初めての体験だ。どうやら地球は危ないらしい。小学生だった私はきっとそう感じたのだろう。当時の文集の「わたしの夢」には地球環境を守る人間になると書いたのを覚えている。

あれから、地球環境は良くなるどころかますます悪くなっていっている。そしてその悪化の一途を止める術は簡単には得られないようだと薄々みんな感じている気がする。

だから、ヴィーガンという生き方を選ぶ生き方が生まれ、一方で、生態系の保全のために外来種を駆除しようとする取り組みが生まれている。どちらが正しいのか、考えれば考えるほどわからなくなる。私ごときの知能で、地球を救う術なんて考えることは不可能だと思えてくる。

たぶん、欲張りすぎたのだ。私たちは。余分という豊かさを愛しすぎた。知らないことを放っておくことができなかった。その結果が今なのだろう。前に進むことを良しとし、発展を尊重する意志を共有しすぎてしまったのだろう。人と比べ、人より優ることを誇りに思ってきたがために、今、それらの感情を捨てなければ生きていく余地がなくなる状態まで走り続けてきてしまったのだ。

このままではいけないことは分かっている。でも、今の生き方を全て捨てて明日を生きることは出来るだろうか。少しずつでもいいから今ある余剰を捨てていく。そんな覚悟が必要なのかもしれない。