世の中には勉強ができる人とできない人がいる。その境界線は明確でなく、狭間にいろんな状態の人がいる。そして自分自身は狭間の人間だと思う。そんな自分とは違い、勉強ができる人にこれまでに何人も出会ってきた。自分よりはるかに能力が高い人たち。なぜ、自分より勉強ができる人がこんなにたくさんいて、自分はその人たちにかなわないのか。勉強ができる方がいいのかどうかは置いといて、出来る人とできない人の違いは、埋められないほど深い溝なのかは知りたいと思う。
子どもは小学校に入学する年齢になると、学校へ通わなくてはならない。私立や公立、首都圏や地方の別はあるが、だいたいにおいて同じ状況で小学校一年生は始まる。にもかかわらず、勉強ができる人とできない人が生まれていく。そしてその差はどんどん大きくなっていってしまう。学校で学ぶ以上、できない人も努力ややり方次第でできるようになる。それが勉強という対象であるべきであろうに、そう簡単にはいかない。
勉強において、持って生まれた才能はいわゆるIQと呼ばれるものだろう。IQが高いと、当然勉強ができる場合が多いが、IQが低いから必ずしも勉強ができないというわけでもないはずだ。
そもそも、勉強ができるというのはどのような状態を意味するのか。学校の試験で高得点をまんべんなく取れる状態。目標としている学校の入試を突破して合格した状態。なにかの資格試験をパスした状態。あるいは、博識であること。そんなところだろうか。
だとしたら、自分と勉強ができる人との違いは何だろう。その答えが知れるかもしれないと思い手に取った本だ。いや、心の底では我が子に何かしら役に立つかもしれないという目論見もあった。
語彙力や読解力が学力の基礎となることは容易に理解できる。それを身につけるためには読書は大いに役に立つだろう。ただ、闇雲に読めばいいというのとは少し違うだろうと思うところがある。読書量がすんなりと勉強の出来に結び付く場合もあるが、そうではない例もあるのだ。読書は大切だが、何をどう読むのかも考慮しなければならない。
自己コントロールにいたっては、身につけられればベストだが、持って生まれた性質も大いに関係していると思う。厳しくすれば身につくものでもないことは、我が子やたくさんの子どもたちを見てきて感じるところだ。同じように育てても、自己コントロールできる子とできない子がいる。きっと一人ひとりに合わせた働きかけを親がすべきであろうけど、まさしくそれが必要な時はなかなか分からないものだ。
一番納得がいったのは、結果が悪かったときに、自分の能力不足ではなく努力不足に要因を見い出すようにする、という指摘だった。冷静に自分に起こったことの要因を分析できれば、モチベーションを高く保ったまま、前向きに努力できるようになる。「どうしてわからないのか」「どうしたらもっとできるようになるのか」そう考える癖をつけること、その重要性については覚えておき、子どもに示していきたい。
この「どうしたらもっとできるようになるのか」は、今の自分は身についていると言える。おそらく世の大抵の大人が身につけられているはずだ。子どもの頃から、さんざん失敗し、挫折し、苦労してきた結果、少しずつ「どうしたら」と考える癖がついてきたからである。だから、だろう。子どもの頃の自分は「どうしたら」と考えることができていなかったのに、大人になった今、我が子を見るとやきもきしてしまう。「もっと計画的に行えばいいのに」「もっと工夫すればいいのに」「とにかく、やりさえすれば終わるのに」そう思って子どもを眺め、ガッカリしたりイライラしたりしてしまう。自分も同じようにできなかったことは棚に上げて。
結局はこの「どうしたら」思考を早く身につけることができた人間が、勉強ができるようになるのだ。だとすれば、いかにして早く「どうしたら」思考を身につけるかが重要である。それには、たくさんのことを経験し、上手くいかなかった体験を重ねることが必要なのかもしれない。その体験のなかで、「できないからやらない」ではなく、「どうやったらできるようになるのか」をじっくり考えていけるように、周りの大人が導いたり、ほんのわずかな手助けをすることが必要なのだ。
今、唐突に「忍たま」の歌が浮かんできた。振り返ることは大切だけど、あの歌、いい歌だな。