大学生のころ、けっこう本気で悩んでいたことがある。
「自分の生きている意味はなんだろう。」と。
未熟な自分には人に誇れるものなんてない、将来の見通しは何も立っていない、好きな人もいるけれど、独りよがりなその思いに目を背けたくなるときがある。バイトして大学に行き遊ぶだけの今の自分は、社会でなんの役に立っているのか。役立たずの自分に、生きている意味なんてあるのだろうか。
地球温暖化は歯止めが効かないように見える。(実際、今現在も進行している。)そんな風に地球を汚しているのは、生産性のない自分だという気がする。だとしたら、私がここに存在する意義は何なのだろうか。
そんなことひたすら考えて、鬱々としていた。
それから、なんとか仕事を始めて、少しずつ社会の中で生きていく自分が見えて、「生きている意味はなんだろう。」と考えることがなくなっていった。そんな頃、出産と育児のために、仕事から離れることになった。
そうしたら、今度は社会から断絶してしまった自分を見つけて、途方に暮れた。子どもを育てるのは立派なことであるはずなのに、自分は社会に対してなんの役にもたっていないと思うようになった。
どんなに毎日忙しく家事や育児をしようと、その成果は目に見えない。息つく暇もないほど家事や育児に追われていても、それに対する対価は何もない。終わりも見えない。毎日やり続けなければならない家事や育児は、日々少しずつ変化しているはずなのに、同じことの繰り返しで変化のないものに思えてしまう。自分に嫌気がさしてくる。でも、新しいことをする時間なんて全くなかった。
あの頃は、今より当然若かったけれど、毎日気力が湧かず体調も悪かった。
「役に立っている自分」
その実感があの頃の私には必要だったのだろう。
労働に対して支払われるお金は、「あなたは社会に貢献していますよ」という証のようなものだ。それが一円もなかった頃は、自分が役立たずの人間だとしか思えなかった。
じゃあ、お金があれば良かったのだろうか。
果たしてそうだとも言い切れないところもあるよな。そんなことを考える本だった。
この本は、数学が好きな人は特に面白いはず。そうでなくても、素数の不思議に引き込まれる。
そうして、人間の不思議にも。
「生きる意味はなんだろう」
そんなこと考える生物は地球上で人間だけだ。だとしたら、私を苦しめていたのは私だったのかもしれない。
人間を含むすべての生き物は、次に生命をつないでいく一つの要素として、ただ生きているだけで十分なのだろう。