もう十年以上も前のことだ。面と向かって対話をすると泣きたくなってしまう人がいた。
嫌な思いをさせられたからではなく、その人の前に立ち会話をすると、自分の感情があふれ出てきて抑えきれなくなるのである。
そんなに親しい人ではなかったから、会話を短く切り上げることで涙を流すこと自体は回避できたのだけれど。
あれは、何だったのだろう。
辛いことを抱えていたわけでもなく、悩みがあったわけでもない。どうしようもなく疲れていたわけでもなかった。いつも話すような間柄でもなく、その人のことを良く知っているわけでもなかった。
ふいに襲ってきた感情に私はひどく狼狽した。
きっとその人が持つ人間性に、私は心を揺さぶられていたのだ。優しさとか偉大さとかそんな言葉で括れないようなその人の持つ人間性に。
そんな状態を歯医者の待合室で久しぶりに味わった。
年を取ると、涙もろくなるという。確かにそんな一面が今の私にもある。
それでもまだ、泣けてきても、じんわり涙があふれ出るくらいでなんとか涙を止めることができる。でも、歯医者の待合室で、私はあふれ出る涙を止めることができなかった。
ちょうどマスクを着けていたから、涙をぬぐう必要がなかったのが幸いだった。涙は垂れ流しの状態でいた方が、ぬぐうより他の人にばれにくい。それをその日知ることもできた。マスクをしているとき限定だけれど。
待合室でひっそりと、でもマスクの中では涙を盛大に垂れ流しながら、私は子どもの検診が終わるの待ち続けていた。
その日は『瓢箪から人生』を持って歯医者へ行っていた。「プレバト」で長年俳句の評価をしている夏井先生のエッセイだ。
病院の待合室など、人が多いところで読む本はできるだけ感動ものは避けることにしている。この日も、泣くことがないような本を選んで持って行ったはずだった。
俳句に関するエッセイで泣かされるなんて、思いもしなかったのだ。
何に感動したのか、と聞かれたら「言葉の持つ力」と答えるべきだろうか。
あるいは「夏井先生の人間力」と答えるほうが正解なのかもしれない。いや、そんな細かな要素ではなく、本の持つパワーに圧倒されたのだ。
なんて文章なんだ。どうしてこんなものが書けるのだ。こんなに奮起しながら人生を歩んできただなんて知らなかった。「プレバト」で見る夏井先生の笑顔を思い出しながら、私は涙を垂れ流し続けていた。
子どもが診察室から出てきたころには、頭がぼんやりするほど涙を流してしまっていた。
同じような経験を、同じ本を読んだからといってみんなが味わうわけではないだろう。でも、読んでみなければ何も体験できないのも事実だ。
本からどれだけ影響を受けるのかは読む時期も重要になってくる。本は出合うべき機会を逃すと、どんなにいい本だって心の中を素通りしてしまうことがある。
だからこそ出会ったときは、その出会いを大事にしたい。逃すことなくつかんだ出会いで、私はずいぶん助けられてきた。
本を読むときは自分の読む力も欠かせない。何かに心を揺さぶられるのは、これまでの出会いと経験が大きく影響してくる。
そういえば、犬とたくさん触れ合うことのできる広場で不思議な夫婦を見たことがある。
人間に触られ過ぎていたからだろうか、そこにいる犬たちは大きいのも小さいのも、疲れ切った様子で過ごしていた。でもその夫婦が広場に入ってきたとたん、そこにいた犬たちの多くが生まれ変わったように耳を立て、尾を振り二人の周りに集まっていったのだ。
あれはいったい何だったのだろう。
どうしても惹かれる相手というものが、生き物には何かしらあるのかもしれない。