異質な存在だから


ネコ二匹と暮らしている。
一匹は大らかな性格で、よく私に話しかけてくるのに、同じネコであるもう一匹のネコに話しかけることはない。
遊んだり、なめ合ったりはするのに、まるで、「自分の言葉が通じるのは、人間だけだ」と思っているようだ。

津村記久子『水車小屋のネネ』を読んだ。

40年に渡る時間を描いた小説で、ページをめくる私の呼吸はずっと静かに、ゆっくりと流れていった。

物語の冒頭で理佐と律に出会った瞬間から、私はただただ二人に「幸せになってほしい」と願っていた。 その願いを胸に、姉妹の40年を見守っていける物語でもある。

登場する人たちは皆、程よい距離感で誰かの近くにいてくれる。その姿に、何度も安心させられた。 近すぎず、遠すぎず、ただ相手の存在を尊重しながら寄り添う人たち。
誰かのために差し出した手が、直接その人の役に立たなくてもいい。 その行為が、別の誰かのためにつながる可能性もあるのだから。

物語に要となるネネは、ヨウムという鳥だ。
かつて、ペットショップで実物を見たことがある。初めて目にしたヨウムは、大きく存在感のある鳥だった。

ヨウムは知能が高く、おしゃべりが上手だ。
ネネは人間の声を真似るだけでなく、文脈を理解しているように見える瞬間がある。 高い知能を持ち、長い寿命を生き、特定の人に深く信頼を寄せることもある。 人とはまったく違う生き物なのに、言葉を介して意思が通じる——その事実に、安心し、そして感動する。

「通じないと思っていた思いが届く」
その奇跡のような瞬間を与えてくれるのが、ネネの魅力なのだと思う。ネネは人間とは全く違う姿をしている。 だからこそ、気持ちが通じたときの喜びは大きい。

では、人間同士はどうだろう。
同じ姿をしているから、私たちは分かり合えるはずだと思う。 その期待があるから、分かり合えないときに傷つく。

でも本当は、 他人はヨウム以上に「異質」なのかもしれない。通じると思っている言葉も、思っているほど通じないものだ。

生きてきた環境も、価値観も、感じ方も違う。 だから他者とは「分かり合えないのが当たり前」と考えれば、 分かり合えなかったことに、過剰に傷つく必要はなくなる。

ネネを見て、そして我が家のネコたちを見て、その思いを強くする。

私もネネの身の回りの世話をしたい。

ネネの世話をすることで、私の存在を受け入れてもらいたい。 そして、私が私であることの静かな“許し”が欲しいと思う。

「誰かに親切にしなきゃ、人生は長くて退屈なものですよ」

誰かのための自分は、自分のための自分でもある。
親切に見返りを求めてはだめだ。 ただ、誰かの呼吸を少しだけ楽にすることで、自分の存在を許してもらうだけで十分だ。

分かり合えないことを前提にしながら、 それでも通じる瞬間に感謝し、誰かの時間にそっと寄り添う。 そうすることで、動き出す私の時間がある。