根付いた場所で生きていく


初夏だ。

庭の草むしりをしていると、慌てて移動していくものがいる。
目を凝らすと、バッタの幼体がそこかしこにいるのに気付く。
今年生まれたバッタたち。
これから夏にむけて、存分に食べ跳ね生きていくだろう姿に、しばし心を奪われてしまう。

身一つで生きていくのだ。
ここで生まれ、この近辺で生き抜いて、命を継いでいく。

千早茜『しろがねの葉』を読み終えた。

胸の奥に残ったのは、ウメの息遣いそのものだった。
ウメを通して見た銀山は、過酷な場所だった。そして、そこで生きる人々は、その土地に縛られているようでもあり、「そこに生きることを選んでいる」ようにも見えた。

自由には、そんな一面もあるのだと思う。
根無し草のように生きる方が自由であるようだが、根を張って生きる自由にこそ多くの人は惹かれる。
その矛盾のような感覚が、物語の余韻として長く残った。

植物は偶然に身を任せ生きているように見える。
それに対し、 人間は自分で選び、移動し、動ける存在のようだ。
だが、実際は動けないのかもしれない。 自分の体温が馴染んだ土地、人との距離感、暮らしの手触り── そうしたものが積み重なると、そこはもう「ただの場所」ではなくなる。

たとえ死が近づくと分かっていても、 人は住み慣れた場所を簡単には捨てられない。 そこに暮らしがあり、日々の営みがあり、 自分の形をつくってきた外界との関係があるからだ。

暮らすという行為は、単独では成立しない。 地域のルール、季節の巡り、風や雨のリズム── それらを無視して生きることはできない。

暮らすとは、世界に身体を馴染ませることだ。 外界に慣れるというのは、自分の形が少しずつ変わっていくようなものだ。自分がすっぽりその場所に収まれるように。

だからこそ、人は場所を捨てにくい。 暮らしを捨てるということは、 自分の一部を切り離すことに近いから。

人は「どこに生きるか」を選んでいるようでいて、 実はその場所に「選ばれている」ことも多いのかもしれない。その土地の空気に沿い、色んな「馴染み」が積み重なると、 そこはもう離れがたい場所になる。

その場所で生きる自由を選ぶこと。そこで根を張るとは、環境との関係性を結ぶことであり、その関係は、思っている以上に深く、静かに広がっていくのだ。