三浦しをん『まほろ駅前番外地』を読み終えた。
「まほろ」は架空の街だけれど、“生活の匂いがする街”として、どこかに実在しているようだった。
この作品は直木賞を受賞した『まほろ駅前多田便利軒』の続編だということを知らずに読み始めたのだけれど、前作を読んでいなくても、多田と行天の関係性にすっと入り込める。
シリーズ物の小説は、“1巻・2巻”と明示されないことが多い。
そのため、前作を飛ばして読んでしまうことがある。多くの続編が、物語の“直線的な続き”ではなく、同じ世界の“別の層”を描いているから、困ることなく読めるのだけれど、「順番に読みたかったな」という思いはどうしても残る。
読む前に続編かどうかを調べればいい。
ただそれだけのことなのに、読みたい本に出合った瞬間は、何よりも読み始めることに意識が向いてしまい、調べるという発想がどこかへ飛んでいってしまう。
途中で、「もしかしてこれはシリーズもの?」と思ったときに、読むのを中断して前作に遡ろうという気持ちは起こらない。だって、もう読んでしまっているから。
うーん。ただのわがままだな、これは。
みんなこの問題をどうしているのだろう。
(全くの余談だけど、最近、「みんなさん」という言い方を耳にする。「みんな」を丁寧に表現しているつもりなのだろうか。違和感しかない使いかただけど、これもいずれ人口に膾炙するのかもしれない。)
まほろ駅前で便利屋を生業とする、多田と行天。二人にはそれぞれ、“直視できない過去”があるようだ。
それは特別なことではなく、人は誰しも、思い出したくない領域をひとつやふたつは持っているだろう。
私自身にも、直視したくないし、思い出したくもない過去がある。
でも、それを繰り返さないように、心の底のほうでそっと気をつけている気持ちがある。
小説を読んだとき、登場人物の影に触れて「あ、私にも似た感情がある」と思い出すことがある。あるいは、いつの間にか行動として“避けて通る”ことが身についている過去の記憶もある。
きっとそれでいいのだ。
過去を無理に見つめ直さなくても、前には進める。
生きてさえいれば。
