つながる物語


「暇」という感覚を、もう長いこと味わっていない。
家にいればやることがたくさんあるし、手元にはすぐ開けるメディア機器がある。読みたい本もありすぎる。
だから「暇」がない。

でもかつては「暇」であふれていた時間が確かにあった。
小学校の夏休みだ。

親の仕事に合わせて普段と同じ時間に起き、親が仕事に行って帰ってくるまで、することが何もない毎日。
野山を駆け巡るか、川遊びにでかけるか(子どもだけで行ってた。今思うと怖い。)やりたくない宿題をやるかしかなかった。

午前中はアニメの再放送を見るのが定番だった。
『ドラゴンボール』、『一休さん』、『じゃりン子チエ』(今思えば完全にヤングケアラーの物語だ。)。そして、『まんが日本昔ばなし』。
もう何度も観ていたからだろう、半ばタスクをこなすように観ていたっけ。
暇で気が狂いそうな時間。懐かしい。

蓮実香佑『桃太郎はなぜ桃から生まれたのか?』を読み終える。

知っているはずの昔話なのに、いざ問われると答えられない素朴な疑問が次々と出てきて、「そうだったの?」と驚く瞬間が多かった。

考えてみると、桃太郎や浦島太郎といった物語を、日本に住むほとんどの人が共有しているというのは、すごいことだ。
竹取物語は中学で学ぶけれど、授業より前に、もうみんなその話を知っている。

私が小さい頃は『まんが日本昔ばなし』があったから、物語が自然に生活に入り込んでいた。でも、その番組が終わった今でも、子どもたちは桃太郎を知っている。

皆、どうやって知るのだろう?
絵本の読み聞かせや紙芝居 で触れるのだろうか。
共通の物語がこんなにも長く、広く共有され続けていることは、すごいことだと思う。

本の中で特に印象に残ったのが、「白兎は自然界には存在しない」という指摘だった。言われてみれば確かにそうなのに、考えてみたこともなかった。

因幡の白兎をはじめ、物語に登場するウサギは白いことが多い。でも、野生の白兎はアルビノで、自然界ではほとんど生き残れない。

だからこそ、昔の人にとって白兎は“珍しい色”であり、 この世のものではない気配をまとった存在 として映ったのだろう。

白狐、白蛇、白馬、白鶴…… 日本の物語における「白」は、いつも“境界の色”だ。 神に近い、異界に近い、日常の外側にいる。 白兎もその系譜にあるのだと思う。

もうひとつ心に残ったのが、オオカミと神社の関係だ。

  • オオカミを呼び寄せるために、神社にオコゼの干物を置いたこと
  • 神社にオオカミが縄張りを示すためにつけた“匂いの石”があり、それを持ち帰ってシカ・イノシシよけに使ったこと
  • その石の効力が一年で切れるため、毎年新しい石を拾いに行ったこと
  • その習慣が「一年に一度お札やお守りを新しくする」文化につながっていること

これらの事実は、生活と信仰が分かれていなかった時代の感覚を鮮やかに思い出させる。

オオカミは山の神の使いであり、同時に農作物を守る“実利”の存在でもあった。 人々は自然の生態系を理解し、その力を借りながら暮らしていた。 その知恵が、やがて神社の習慣や信仰の形として残っていく。

昔話や神話は、生活の延長線上にあったのだと改めて感じる。

私たちは、物語を読むことで、 遠い昔の人々の感覚や暮らし方にいつの間にか触れている。それが文化の基になっていくのだろう。