近所の本屋を可能な限り利用するようにしている。
毎月の定期購読の雑誌を受け取るついでに、目に付いた本を買ったり、読んでるマンガの新刊をチェックしたり、「オンライン書店e-hon」で注文し、店舗受け取りにしたりしている。そうすることで、わずかばかり売り上げに貢献できているだろうと思っている。
本が売れないと言われ始めて久しい。
私の住む町は人口密度の高くない町だが、まだ営業を続けてくれているありがたい店だ。
何も買う予定がなくても、疲れた時、悩みから抜け出せない時、元気が出ない時、立ち寄りたいのは本屋以外思いつかない。何度もその存在に救われてきた。
湊かなえ『告白』を読み終えた。
いつもの本屋で最後の一冊だった。
手に取ったのは2025年4月22日に発行された141刷。
電子書籍が普及し紙の発行部数が減り続けている今、文庫本で141刷りというのはほとんど奇跡のような数字だろう。ずっと存在は知っていたのに、なぜか読まずにきてしまった本だったから、こんなにも多くの人に読まれてきたという事実に少し圧倒される。
物語の中で描かれる中学生たちは、あまりにも残酷で、思慮がなく、救いようがないように見えた。
道徳心が欠如した人間。それは未熟さを抱えていることとイコールなのだろうか。
でも、道徳心というのは、幼少期に身につくものだと何かの本で読んだことがある。だとしたら、成長しても、道徳心のない人間は道徳心がないままなのかもしれない。
とはいえ、私の感覚で中学生とはもっと揺れていて、もっと複雑で、どんどん成長していく可能性がある存在だ。未熟さもあるからこそ、大きく成長することもある。
自分のことを思い返してみると、思慮の足りない中学生だったことをいくらでも思い出せる。
だからこそ、あの物語のように“救いのない人間ばかり”ではないと、どうしても思ってしまう。
それでも同時に、現実には「分かり合うことなんて一生ないだろう」と思える人間が存在することも否定できない。
もし自分の子どもが、受け持ちの生徒に殺されたとしたら――。
そのとき、司法にすべてを任せて「正しく罰してもらう」ことで、本当に気持ちは収まるのだろうか。
そう考えると、森口のように「任せきれない」と思ってしまう気持ちも理解できるような気もする。
復讐しても何も救われないことは分かっている。
それでも、復讐せずにはいられない心がある。
人の勝手は許し難いのに、自分の勝手は許されてもいいだろうと考えてしまう。
生きるという営みが、究極的には利己的な活動である以上、その感情は仕方のないものなのかもしれない。
正しさというものも、人が作った枠組みにすぎない。
本当に正しいとは何なのか。
正義とは何なのか。
悪は裁かれるべきなのか。
読み終えたあと、そんな問いが静かに残った。
人は間違うことがある。
そのことを知っていても、「自分だけは間違わない」と信じて生きているのが人間なのだろう。
『告白』は、その危うさを容赦なく突きつけてくる物語だった。
