朝が来たら今日が始まる。
そのことについて、普段は何も考えることはない。目覚めたら、不調があってもなくても、今日一日の予定をこなすために布団から出て活動する。そして、予定を全て終えればまた布団に戻って眠る。
家があり、仕事があり、食べる物がある。
ネコもいる。
それで十分だろうと思うのは思う。
でもあの時、別の道を選択していたら、愛する人との暮らしに感謝する日々を送っている私がいたのかもしれない―そんなふうに考えることもある。
岸見一郎『アドラーに学ぶ どうすれば幸福に生きられるか』を読み終えた。
アドラーは100年以上前の人だというのに、彼の言葉は驚くほど今の私たちの生活に寄り添ってくれる。特に「結婚」や「家庭」というテーマに関しては、時代を超えて普遍的な洞察があると感じた。
本の中で印象に残ったのは、次のような言葉だった。
- 自分のことにしか関心を持たない人は、恋愛も結婚も行き詰まる
- 共同体感覚は徐々にしか育たない
- 尊敬も愛も、相手に強制できない
- 愛と結婚の問題は、完全な平等の上でしか解決できない
- 経済的な優位・劣位は人間の価値とは関係がない
- 他者の目・耳・心で感じられる人が、家庭生活に備えられる
これらを読みながら、私は「家庭で生きる」ということをあらためて考えた。
生きていくために、学びは必要だと思う。
学ぶことは「自分を保つための呼吸」のようなものだ。
本を読み、考え、言葉を育てる時間は、家庭という共同体の中で役割を果たしながらも、私自身を守るための大切な営みである。
アドラーが言う「他者の心で感じる力」は、まさに読書や学びの中で育っていく。
家庭生活に必要な力は、“他者への想像力”なのだと感じている。
私の夫は、家庭の外では共同体感覚がある人のように見える。
だから夫を結婚相手として選んだのだ。
けれど、夫の共同体感覚は家庭の中では働かなかった。
外では協力的に見える人でも、家庭に入ると「自分中心」になることは珍しくない。
家庭は評価もルールもない場所で、素の価値観が露骨に出るからだ。
学があることと、家庭で対等性を実践できることは別の力だということを、私は長い時間をかけて知った。
結婚前は、家庭での役割がまだ発生しない。
だから、相手が家庭でどんなふうに振る舞う人なのかは、ほとんど知ることが出来ない。
外で共同体感覚を演じられる人も、家庭では演じることができない場合がある。いや、演じる必要性を感じない人がいると言った方がいいのかもしれない。
家庭内の共同体感覚は、育ってきた環境や価値観に強く依存することはわかっていても、結婚前にそれを正しく見定めるのは簡単ではない。
だから、結婚相手を選ぶのは難しいのだ。
構造的に見抜きにくいものなのだと思う。
共同体感覚は、本を読むことでも身についていく。だとしたら、多様な本を読む人かどうかは、ひとつの判断基準になるのかもしれない。読書量が多いだけではだめだ。多様な読書であることが、重要だと思う。
アドラーの言葉を読みながら、私は今日も静かに考えている。
家庭という小さな共同体の中で、どうすれば対等に、尊敬を持って生きられるのか。
夫を変えることは難しいと思うから、せめて子どもたちは、家庭で共同体感覚を持てる人になってほしいと思う。
