面白い本に出合ったとき、本を読む人が身近にいたら、その本を紹介したくなる。
紹介しても、読むか読まないかは相手の自由にまかせているし、読んだかどうかをこちらから尋ねることはしない。でもときどき、相手が感想を伝えてくれ、面白いを共有できる機会がもらえる。
興味深いのは、同じ作品を読んでも、私が面白いと感じた部分と、相手が面白いと感じた部分が全く違うことがあるということだ。
受け取り方の個人差は、こんなにもひらきがあるのかと不思議な気持ちになる。
詠坂雄二『5A73』を読み終えた。
読み始めから“前書きのような語り”に引き込まれ、謎を追う展開にワクワクしながらページをめくっていた。だが、最後、「思ってたんと違う」展開になった。ラストでふっと地面が抜けるような感覚を味わい、呆然とした。
あれ、途中まですごく面白かったはずなんだけど、なんだか「面白かった!」と言い切れない。
でも「面白くなかった」とも違うな。
宙ぶらりんの読後感。
途中まで感じていたジャンルと、最後に突き付けられたジャンルの隔てによって、読んでいる最中に感じていた意味づけが揺らぐ。解けるはずだと信じていた解法への道筋に、最後だけ別のルールが持ち出され、その拍子抜け感を前に、どう反応していいのか分からなくなった。
「暃」という文字に対しても「ああ、そうなの」と、力が抜けるような感覚が残る。
もちろん、これは作品が意図した“裏切り”なのだと思う。
その展開によって、人の持ちがちな癖が、自分の足元を掬うことがあるのだと知らされる一面もあった。
でも、そのテーマを扱うのに、この物語でなければならなかった必然性はあったのだろうか。そんな疑問も同時に浮かぶ。
普段はあまり、他の人の感想は確認することはないけれど、今回は気になったので検索してみた。
私と同じように拍子抜けした人もいれば、逆にこの“裏切り”を面白いと感じる人もいたようだ。
論理の積み上げを大事にする人もいれば、ジャンルの転覆や言葉遊びを楽しむ人もいる。
同じ本を読んでいるのに、まったく違う世界を受け取っている。
その多様さが、面白い。自分は自分でしかないから、誰かと感覚を完全に共有できないのは当たり前で、でも、誰かと同じ感覚になるときもあるのだという不思議。
その違いを自然に受け入れられる人でありたいと思う。
読書は、読み手の価値観や経験、期待までも浮かび上がらせてくれる。
『5A73』は、読者としての自分を静かに見つめることのできる本だった。
