最近、父親の言い方に似てきたなと感じることが増えた。
大学入学をきっかけに実家を出て30年近く経った。その間、父とは一緒に暮らしていないのに、私は父の娘であることから逃れることができない。遺伝というものの拘束力の強さを感じてしまう。
生まれが違ったら、当然私が持ち合わせる才能も違ったはずで、でもそうしたら、今の私ではあるとは言えず、結局のところ、持ち合わせた遺伝子をどうにかこうにかこねくり回して、私は私の理想に近づくしかないのかもしれない。
小い頃から、なぜだか言葉に興味があった私は、なんの悩みもなく大学の文学部へ進学した。そして迷うことなく国語の教員の端くれになったのだけれど、言葉の不可解さはずっと抱えたままだ。
私にとって言葉は、使いこなすことなんて不可能な対象なのである。
三宅香帆さんの『文体のひみつ なぜあの人の文章はつい読んでしまうのか?』を読んだ。
文章をどう書けばいいのかわからない人にとって、これは一冊の“地図”になりうる本だと思う。
それにしても、よくここまで集め、ここまで考察したものだ。ひとつひとつの文体を丁寧に読み解くその姿勢は、もはや偏愛に近い。文章そのものを愛していないと到達できない密度だ。
文章には、どうしても書き手の癖が出る。
それは魅力にもなるし、ときには邪魔にもなる。そんな癖を取り除きたいときにも、この本は役に立つだろう。「なぜ読みやすいのか」「なぜ引っかかるのか」を具体的に言語化してくれるからだ。
ああ、読みやすい文章を書ける人になりたい。
息をするように書き、聞き流すように読めるのに、後からワンフレーズだけハミングしたくなるような文章を。
歌う才能があるように、言葉を紡ぐ才能も生まれながらにして存在するのかもしれない。ヒトが言葉を獲得してからまだ、7万年ほどしか経っていないのに、いつの間に、遺伝子の中に言葉を扱う才能のあるなしが組み込まれたのだろう。本当に不可解だ。
結局のところ、凡人は読むしかないし、書くしかないのだろう。
その単純な積み重ねの中にしか、自分の文体は育たない。
世の中の、言葉を使いこなしている人たちの遺伝子に、嫉妬を覚える本である。
