「今」に影響を受けている


ことばや生き物について考えることが好きだ。その分からなさと不可思議さと、すぐ傍にあるのに姿をつかみきれない感じに惹かれるのだと思う。分かり切れず、でも分かり切れそうな面白さ。自分の中の新しい気付きによって、そのものに迫りそうになるのに、するっと手の中からこぼれ落ちていくもどかしさに興味が絶えない。

三宅香帆『考察する若者たち』を読み終えた。

「さすがにこれは決めつけなのでは?」と思う指摘がいつくかある。けれど、ページを閉じたとき、その違和感はきれいさっぱりなくなっていた。ああ、これは“批評”という営みなのだ、と気づいたからだ。

批評は、正しさを証明するための作業ではない。世界をどう切り取るか、その人がどんな角度で物事を見ているかを提示する行為だ。だから最適解も、報われる必要もない。むしろ、断定や偏りを含んだまま、ひとつの視点として差し出されることに意味がある。

受け手である私は、その視点に納得したり、反発したり、考えを深めたりする。その揺れが、考える楽しみを連れてきてくれる。

若者ではない私も、いつの間にか「考察すること」をよしとしてしまっていたことに気づいた。
「今」の雰囲気に影響を受けずに生きていくのは難しいものだ。気づかないうちに、物語や現象を“読み解く”ことに安心を感じる自分がいる。けれど、何かに触れた時、自分の読み方の癖や、世界との距離の取り方が揺らぎ、正解が分からなくなる瞬間があるほうが面白いのだ。

三宅さんは博学で、インプットもアウトプットも圧倒的だ。軽やかに書いているようで、その背後には膨大な読み込みと考察があるのが伝わってくる。

今の世の中は、検索エンジンからAIへとネット活動の基盤が移りつつあるという。これまで主流だった、検索エンジンは「世界を探しに行く」ための装置だったけれど、AIは「世界を再構成して提示する」装置だ。私たちはいま、世界との接続の仕方が静かに変わっていく過渡期にいる。

AIによって再構成された“正解”だけを頼りに生きていたら、揺らぎに出会う機会が少なくなってしまうようにも思う。

その変化は“世界の分断”を促すのか、それとも“時代の移行”となるのか。どのように対応していくかで、未来のありかたは大きく変わるかもしれない。

批評を読むことは、他者の視点を借りて世界の輪郭をもう一度見直すことだ。
そしてその視点に触れたとき、自分の中の思い込みや癖がふっと浮かび上がる。
『考察する若者たち』は、そんな揺らぎを静かに促してくれる一冊だった。