平野啓一郎『文学は何の役に立つのか?』を読み終えた。
まず胸に浮かんだのは、著者の圧倒的な読書量と博識への敬意だ。引用される作品や思想の幅の広さに圧倒されながら、同時に「文学とは何か」という問いが、私の内側に静かに沈んでいくような感覚があった。
読み進めるうちに、ノーベル文学賞作家のスヴェトラーナ・アレクシエービッチが、かつて新聞のインタビューで語っていた言葉を思い出していた。
「作家は『人のなかにできるだけ人の部分があるようにするため』に働くのです」
「私たちが生きているのは孤独の時代と言えるでしょう。私たちの誰もが、とても孤独です。文化や芸術の中に、人間性を失わないためのよりどころを探さなくてはなりません」。
文学は、人間であり続けるための支えである。
もうひとつ思い出したのは、高橋源一郎が穂村弘との対談で語っていた言葉だ。
「未知の出来事が起きた時、人はその新しい事態に対応する言葉がない。自分が何を感じているのか分からなくなる。そんなとき、『あなたが感じているのはこういうことですよ』と言葉にして手渡すことが、作家の大切な仕事の一つです」。
言葉がなければ、ただ漠然とした不安や痛みとして漂ってしまう感情に、輪郭を与えてくれるのが文学である。
読書はストレスを減らすと言われる。
私も本に救われてきた経験が何度もある。
一方で、深く読むほど、むしろ痛みが増えることもあるのだと思うようになった。
知識が増え、思考が深まることで、これまで見えなかった不条理に気づいてしまう。
たとえば、「死産で逮捕された母親」のニュース。あの出来事を思い返すたび、胸の奥が締めつけられるような悲しみに支配される。もし私があまり考えることのできない人間だったら、この悲しみに気づくことも、立ち止まって苦しむこともなかったのかもしれない。
けれど、そうした痛みは、ただの負担ではないとも思う。
アレクシエービッチが言う「人の部分」を守るという営みは、痛みに気づける感受性と切り離せない。
高橋源一郎の言う「言葉を手渡す」という行為もまた、痛みを知っているからこそ可能になる。
知識が増えることで苦悩が増えたとしても、その苦悩が誰かの孤独を少しでも軽くする言葉へと変わるのなら、それは無駄ではないのだろう。
文学が何の役に立つのか。
それは、人それぞれだ。
癒しになることもあれば、痛みを増やすこともある。けれど、その痛みを言葉に変えることで、誰かの心に小さな灯りをともすことができるかもしれない。そう考えると、私が感じてきた苦悩もまた、文学の営みの一部なのだと思えてくる。
文学が何かの役に立つ可能性を持っていることは、確かなことだ。
その可能性の中に、私自身の痛みもそっと置いておきたいと思う。
