出会うことなくすれ違う


藤沢周平『白き瓶』を読み終えた。
長塚節という文人の短い生涯が、しかし読み応えのある長編小説に描かれている。

人の一生はそれぞれにかけがえのないものだ。

長塚節を始めとして、伊藤左千夫や斎藤茂吉、夏目漱石、正岡子規、その他にもたくさんの文豪たちの名前が出てくる小説。国語便覧や教科書の中で何度も目にしてきた人たちだ。
どこか遠い存在のように感じていた人たちが、『白き瓶』を読むと「自分と同じように確かに生きてきた人」として立ち上がってくる。

長塚節は、病と貧しさに追われながらも、文学と旅への情熱を手放さなかった。今なら治る病気だが、当時は確実な治療法がなかった病気を抱え、命を削るように生きていく。その切迫した状況があったからこそ『土』の乾いたリアリティや、短歌の一首一首に宿る光が生まれたのだと思う。
あの時代だったからこそ書けた作品群。
人は、生まれて生きる時代に、多大な影響を受けながら生きていく。

伊藤左千夫の子だくさんぶりや、晩年に若い歌人たちから煙たがられたというエピソードには驚いた。文学史では「アララギの指導者」として整った像で語られるが、実際には生活に追われながら家族を思い、理想を追いつつも若い才能に押されていく“普通の大人”としての姿があったのだろう。

さらに意外だったのは、夏目漱石が稲の苗から米がなると知らなかったという話だ。あれほど鋭い知性を持ちながら、生活の基盤となる農の世界には無知だった一面があったようだ。
こうした細部が、文学史上の人物たちを身近に感じさせてくれる。

少し前、国語便覧が売れているというニュースを目にした。便覧を買い求めた人たちが『白き瓶』を手に取ったら、きっと面白く読めるはずだ。本文中の短歌や手紙の部分は少し読みづらいかもしれないが、便覧の整った年表や人物紹介では見えない、「生きていた人間」を知ることができ、そこにしかない面白さがある。

本を閉じたあと、日常の風景が違って見えた。
車の信号待ちで、横断歩道を渡る人たちに目がいく。道行く無数の人たちが、それぞれに固有の人生を抱えている。目の前にいる人たちなのに、そのほとんどと私は出会わず、名前も知らず、ただ同じ時間を一瞬共有して通り過ぎていく。考えてみれば、それはとても不思議なことだ。
誰かと出会い、知り合うのは奇跡的な確率なのかもしれない。

長塚節の短い生涯を追ったことで、普段は意識しない“他者の人生の重さ”が静かに立ち上がった。

人の一生のかけがえのなさを、静かに思い出させてくれる本だ。