アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』を読み終えた。
まず心をつかまれたのは、「同じ言語を持たないのに、なぜ私はネコや他の動物が怒っていると分かるのだろう」ということだ。
その声が低く、鋭く、短く、強いときはもちろん、そうでなくても、あらゆる生きものの怒りの声を、確かにそれと認識できるのはなぜなのだろう。
言語以前のもっと根源的なコミュニケーションが、種を超えて機能している不思議さ。
そもそも、ヒトも多様な生き物のうちの一種でしかない。かつてはすぐ隣で生死を分け、あるいは共存していた生き物たちの感情を、自然から離れた場所で生きることを選んだ後も、無意識に読み取れるのは当然のことなのかもしれない。
「言語とは何か」。その問いに答えるのは難しい。コミュニケーションをとる生き物はヒト以外にもたくさんいる。それらの音声を「言語」と呼ぶかどうかの、明確な線引きは存在しない。カーシェンバウムの議論を読むと、言語という概念そのものが、思っていた以上に曖昧で、広がりのあるものだと気づかされる。
読みながら、ヒトがこれほど複雑な言語を使うようになったのは、能力が低かったからではないかと思い至った。
600万年前、チンパンジーとヒトの共通の祖先のうち、ジャングルで生き延びるには、身体能力の低い個体が存在していたのかもしれない。そのことが、仲間同士の協力を促し、その結果として言語の萌芽が生まれたのかも。
実際に、そんな説もあるらしい。
ヒトは、牙も爪も弱く、走るのも遅い。そのようなヒトが、身一つでジャングルで生き延びることは不可能だ。そのためヒトは協力し、知識を共有し、仲間と計画を立てる必要があった。言語はそのための“生存戦略”として発達したのではないか。弱さが、言語を生み出したのかもしれない。
ヒトの扱う言語は数多くあるが、どんな言語でも、単語があり文法が存在していることも不思議だ。(ピダハン語という文法が極端に少ない言語はある)
また、同じ言語を話すヒトの間でも、言葉を上手く使える人とそうでない人がいることもずっと不思議だった。
語彙の豊かさだけではなく、文脈を読む力、相手の心を想像する力、文化的背景など、さまざまな要素が絡み合って言語は形を成す。だからこそ、同じ言語を話していても、使い方には大きな差が生まれるのだろう。
本を読み終えたあと、日本の研究者で鳥の言語を研究している鈴木俊貴さんのことを思い出した。彼はシジュウカラが「単語」を使い分け、さらには組み合わせることまでできると示したらしい。特定の音が特定の意味を持ち、それを仲間同士で共有しているという。近々著書を読んでみたいと思う。
そしてもう一つ、心に残った話題がある。類人猿のうち、歌うのはテナガザルとヒトだけだという事実だ。
1000万年前に分岐した二つの種が、なぜ同じように“歌う”という行動を持つのか。縄張りを守るため、つがいの絆を深めるため、あるいは声帯の進化の副産物として。いくつかの仮説があるが、どれも「歌」という行動が、単なる娯楽ではなく、社会や関係性を支える重要な技術だったことを示している。
ヒトにおける歌は、言語と同じく、ヒトの弱さや孤独、そしてつながりたいという願いから生まれたのかもしれない。
動物の言語をめぐる本を読むことは、「ヒトも多様な生き物の一種でしかない」ことを再認識する機会になった。
言語の境界は思っていたよりも曖昧で、動物たちの世界は想像以上に豊かだ。私たちはその中で、弱さゆえに言葉を発達させ、歌を生み、互いに理解しようとしてきたのだろう。
日々の会話や文章を書く行為も、生きるためのひとつの能力なのである。
