かつて住んでいた場所から今住んでいる場所へ引っ越してた日の夜、「私の耳は疲れていたんだ」と気づいた。
それまで住んでいた場所は人口密度が高く、国道にも近いところだ。その国道は朝から晩まで車の往来が多かった。救急車やパトカーのサイレン音もしょっちゅう鳴る。誰かが誰かに鳴らすクラクション音も賑やかだ。その上、住居の真上を飛行機が飛び交っていたこともあり、上からもエンジン音が降ってくる場所だった。
活気があると言えば活気がある。
雑然としていると言えば、雑然とした場所だ。
絶え間なく響くエンジン音は、日常の音でもあった。
だから、そこに住んでいた頃「うるさいけれど、うるさくて疲れる」ほどでもないと思っていた。
けれども、夜になったら頼りなく光る街灯しかなく、聞こえる音といえばムシの音くらいの場所に家を構えて、自分が知らぬ間に疲れていたことに気付かされた。
耳はそれだけでは閉じたり開いたりできない。
目や口や掌と違って、開けたり閉めたりできない。
にもかかわらず、引っ越したその晩、私の耳は開いた気がした。内向きに閉じていた耳が、外に広がっていく感覚を味わった。
雑多な音は、結構なストレスになっていたようだった。
小説から音は流れない。
でも、これは「静かな音にあふれる小説」だった。
耳が、そこに記された音に向かって開かれるような感覚があった。
現代人は、耳の疲れを抱えている人が多いだろう。そして、そのことに気付いていない人も多いのかもしれない。でも、一部のひとは疲れを認識しているらしく耳を温めるグッズが売られ始めている。
スマホやタブレットを開けば、何かしらの映像に出会わないことはない。それらを無音で眺めることも可能だが、知らぬ間に何かの音に私たちの耳はさらされていることが増えた。
お風呂が湧いたら「お風呂が沸きました」と毎度丁寧に知らされる。今は、しゃべらない家電を探す方が難しいのではと思うほど、家の中も雑多な音であふれる。
家の中だけではない。外へ出ればなおさらそうだ。
日本人は比較的静かな人が多いと思うが、それでも人込みへ入ればいろんな音が聞こえてくる。
雑多な音にあふれた世界から自分を切り離す方法が、別の音を耳に流し込むイヤホンだったりもする。
私たちの耳は、思った以上に疲れている。
そんな疲れを癒すような小説だった。