須藤古都離『ゴリラ裁判の日』を読み終えた。
物語はファンタジーとして楽しめ、ローズというニシローランドゴリラの生き方に魅力を感じる。ジャングルで生きていくゴリラの、たくましさとしなやかさも、味わうことが可能だ。
一方で、「言語の拘束力」ということを考えさせられた。
前半で描かれるローズのジャングルでの生活は、とても美しい。仲間との距離感、森の匂い、自然の中での時間の流れ。そこには、ヒトが忘れてしまった“世界とのつながり”のようなものが存在している。だから、ローズが人間の文化を学び、アメリカへ行きたいと願う場面に、私は小さな違和感を覚えた。
生きたい場所で生きようとするローズが、都会の生活を「より魅力的なもの」と感じる展開は、どうしても人間の価値観が入り込んでいるように思えてしまう。そう考える自分自身もまた、人間中心の視点から逃れられていないのではないか。そんな複雑な気持ちが生まれた。
物語の中で、ローズは人間の言語を学ぶことで世界の見え方を変えていく。これは、ヒトが言語を獲得してきた歴史の縮図のようにも思える。言語は、ヒトに多くの力を与えた。抽象的なことを考えたり、未来を想像したり、複雑な社会をつくったり。言語がなければ、今のヒトの暮らしは成り立たない。
けれど同時に、言語はヒトを不自由にもしたのではないか、と思えてくる。
言語を使うようになった瞬間、ヒトは世界を「名前」で切り分けるようになった。言葉で説明できないものを、共有することは難しい。だから、言語の違いが文化の違いになる。その違いが他者理解を阻む。
言語があるから誤解が生まれ、争いが生まれ、「私」と「あなた」の境界が強くなる。
言語は便利な道具であると同時に、ヒトを世界から切り離す壁にもなっている。
ローズが「言語を持たないゴリラとは意志疎通ができない」と考える場面は、その象徴のように思えた。ローズが覚えたのはアメリカ式手話である以上、彼女の思考は、アメリカの文化に基づくものだろう。だから、アメリカの文化を知り得ない他のゴリラと、意志の疎通が難しくなる。もし、彼女が習得したのが他の国の言語だったら、どうだったろうか。
たとえば、自分が、日本語ではない他の言語を習得することができたら、私の考え方は少し変わるはずだ。その感覚を味わってみたい。語学の勉強、頑張ってみるかという気持ちが湧いてくる。
実際には、ゴリラ同士は表情や声、距離感などで豊かなコミュニケーションをしている。言語がないから理解できない、というのはヒトの思い込みだ。言語以前の世界には、もっと直接的で、濃い関わりがあるだろう。
言語はヒトにどれほどの自由を与えたのだろうか。
言語があるから、ヒトは未来を語り、物語をつくり、社会を築いた。それは一見すると大きな自由のように見える。けれど、言語があるからこそ、ヒトは利己心を複雑にし、他者を説得し、争いを正当化し、言葉で説明できないものを切り捨ててしまうようにもなった。
言語は自由を増やしたのではなく、
自由の形を限定したのかもしれない。
言語を獲得してしまった以上、もうヒトは言語以前の世界には戻れない。その不可逆性を思うと、言語がもたらした不自由のほうが、今の私には強く響いている。
言語の不自由さを自覚し、その限界を見つめようとすることは、檻の中で壁を押すような行為かもしれない。完全に外へ出ることはできなくても、それを広げることは可能だ。ローズの物語は、そんなヒトの姿を静かに照らしていた。
