言葉には、いくつもの顔がある。
たとえば、「また」という二文字にも、再会の喜び、繰り返しの苛立ち、別れの予兆など、使われる場所によって大きな違いがある。
文脈を読み取る力がなければ、その多義性は、時に人と人との間に静かな軋轢を生む。
正しくとらえるには、受けての力が必要だ。
しばらく前、ある有名人同士が「不幸」という言葉をめぐって言い争っていた。ああ、これは読解力の違いが生んだ争いだなと感じた。
言葉にはたくさんの意味がある。その場で使われている意味を、正しく読み取らなければならない場面は、日常にあふれているんだな改めて思った。
一方は「不幸だったね」と慰めのつもりで言っていたのに、もう一方は「不幸な人間だと決めつけるな」と反発し、意志疎通が全くできない状態のようだった。
読解力は、共通の言語を持つ者同士が、正しく意思疎通するのに必要な力である。
けれど、その力には個人差がある。読解力のない人に「もっと読み取って」と求めることは、時に無理を強いることになるだろう。
だからこそ、読解力のある側が、誤解を生まないように言葉を選び直すしかないのかもしれない。
それは、譲歩ではなく、配慮であり、成熟でもある。
言葉は、刃にも、布にもなる。自分が発した表現が、それを意図していなくても、解釈の違いによって誰かを傷つけることも、包み込むこともある。
だからこそ、私たちは、言葉を慎重に選ぶ必要がある。
読解力とは、相手の心に寄り添う力なのかもしれない。
今井むつみさんの『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』では、私たちが言葉を理解する際に「スキーマ」という認知の枠組みを通して情報を処理していることが語られている。
つまり、同じ言葉でも、受け手のスキーマによって意味が変わってしまう。
「また」や「不幸」といった言葉が誤解を生むのは、まさにこのスキーマの違いによるのだ。
読解力が及ばない人に対して、だからもっと本を読むべきだといいたくなるのは、自然な発想なのかもしれない。けれど手っ取り早く確実なのは、読解力がある方が、誤解を生まない表現を選ぼうとすることなのだ。
