親の愛情は無尽蔵ではないと感じている


今年度の共通テストが終わった。

体調万全で臨んだテストだったが、子どもは思うような成績が取れなかった。

最後の2択で間違えた問題が多かった。

理解はしている。でも、正解までたどり着けなかったのだ。

終わったことはどうしようもない。結果はどうあがいても覆せない。

あの1問を正解していれば、希望していた大学へ望みもあったのに、あと一歩が届かないようだった。

子どもは当然ながら落ち込んだ。声を上げて泣いた。

でも、仕方がないのだ。

そのまま希望の大学へチャレンジするのか、別の大学にするのか自分自身で決めなくてはならない。

私大の受験もある。対策するなら一日も無駄にできないはずだ。

そう思って「頑張るしかないよね」と私は声をかけたのだ。

それが子どものなかで、どこをどう変換されたのか

「泣くなって言わないで」と睨まれてしまった。

「そんなことは言ってない。泣きたいなら、大いに泣けばいいじゃない。」

そう伝えると

「泣くなって言われているように聞こえる」

と返されてしまった。

もう、何を言っても今は仕方がないのだろう。自分に降りかかってきた苦難を、その一部でも親のせいにしなければ気が済まないのかもしれない。

頭では、理解している。

子どもが大変な状況にいることも、落ち込んでそこから抜け出すのに時間がかかることも。そんなときに、親の支えが必要なことも。

でも、なんだか疲れてしまったのも事実だ。

受験が近づきナイーブになっていた子どもは、朝準備した弁当をそのままの状態で持ち帰ることがあった。食べなかった理由は聞かされないままである。一言でいい。食べられなかったと言って欲しかった。私は弁当箱の中身を詰めた状態のままコンポストにひっくり返した。早起きして詰めた弁当を、土に還せるのがせめての救いだ。

朝起きられない子どもを、何度か起こしたのにもかかわらず、結局遅刻して登校することも増えていた。

私は時間を守らない人が昔から苦手だ。自分が遅刻するのは絶対に避けたいといつも思っている。

遅く帰ってきた子どもに食事を準備しても、食べきれずにそのまま食卓に残されたままになっていたこともある。

塾代や受験費用なんて、いくらかかったか分からない。

毎日の洗濯、送り迎え、必要なものの準備、受験申し込みの煩雑な手続き。やってあげてることなんて、数えるべきでないことは分かっている。でも、自分の時間をすり減らして、やってあげているのは紛れもない事実だ。

そこにきて、あの言葉と表情だ。やりきれない。

私は少し、子どもとの距離を取った。

このまま、距離を取り続けていたら、これまで築いてきた親子関係もあっけなく崩れ去るのかもしれないとぼんやりと思っていた。

なんとかなるなら、なんとかしなくてはならないのだろうけれど、今の自分にはその気力がない。

そんなときは、足が自然と本屋や図書館へ向かう。

そんなときに、出会うべくして出会うのが本なのである。

別に探していたわけではない。でも妙に目についた。

そして引き寄せられるように手にとった。いつも10冊ほど読もうと思っている本を常備しているけれど、この本を真っ先に読みはじめた。

一見、今の自分の悩みに関係のなさそうな書名である。

でも、読んで少しすっきりした。

私はもう少し、親としてやっていけるかもしれない。

書名の通り、やりたいことが見つからない中高生にもおすすめだが、子どものことでぼんやりとした疲れを抱えている大人にもおすすめである。