親でも子でも


尾崎衣良『真綿の檻』を5巻まで読み終わる。


胸の奥に、重さと静けさが同時に沈んでいくような感覚があった。物語の中で描かれる親子の姿は、決して一言で語れるものではなく、複雑な余韻を残していく。読み終えた今、私の中に残っているのは、「毒親」という言葉の強さについての違和感だった。

「毒親」という言葉は、端的で、鋭くて、強い。その強さゆえに、現実の親子関係の多面性を曇らせてしまう側面がある。
毒親と呼ばれる人の中にも、そうではない可能性がある人がいるかもしれない。片側からの視点だけでは見えない事情がある。
「毒」という評価は、子どもからの感想であり、子ども自身がどんな気質を持ち、どんな環境で育ち、どんな受け取り方をする子なのかを知らなければ、正確な判断はできない。

親子関係は、親だけを見ても、子どもだけを見ても、真実には届かない。親の未熟さ、子どもの特性、家庭の環境、社会の圧力、性格の相性。そうしたものが複雑に絡み合って、外からは見えない関係をつくっている。

「産んだから育てる責任がある」という言葉も、よく使われるけれど、簡単に使っていい言葉ではないはずだ。
「産んだ責任」、確かにその通りなのだけれど、「産めるのは母親だけ」という現実が、責任の矢印を母親にだけ向けてしまうことがある。産んだ瞬間から、母親は「責任の主体」として扱われる。父親や社会の責任が曖昧なまま、母親だけが「当然の義務」を背負わされる構造がある。これは、親子の関係を苦しくする大きな要因のひとつだと思う。

親子であっても「性格の不一致」は確実に存在する。人は生まれた瞬間から固有の気質を持っているのだから。自分が産んだ子であっても、理解できるとは言い切れない。子育てをしているとそんな場面にたくさん遭遇する。どうしても分かり合えない部分が当然ある。
これは誰のせいでもなく、ただ「別の人間である」という当たり前の事実にすぎない。

親になるのに資格はいらない。検定も試験もない。だから、未熟なまま親になることは珍しくない。私自身、子どもを産んだばかりの頃の自分を思い返すと、今の自分と比べて未熟だった部分が確かにある。
親は子どもと一緒に成長していくしかないし、成長の速度も方向も人それぞれだ。だからこそ、うまくいかない親子がいても、それは「失敗」ではなく、ただ「自然なこと」なのだと思う。

それでも、幸せな親子が増えてほしい。その願いを叶えるためには、親と子の努力だけではどうにもならないことが多い。親子が優しくいられるためには、社会にゆとりが必要だ。余裕のない働き方、孤立しやすい家庭、相談先の少なさ、「母親ならできて当然」という圧力。こうした環境が、親子の優しさを摩耗させてしまう。

親が優しくありたいと思っても、社会がその余白を許さなければ、優しさはすり減っていく。子どももまた、余裕のない大人たちの中で育つと、自分の感情を安心して出せなくなる。だから、親子の優しさは、社会の優しさに支えられている。親子の問題を「個人の努力」だけで語るのではなく、社会の構造として捉える視点が必要だろう。

親も子も、別の人間であり、完全には分かり合えない。それが当たり前なのだ。親子はむずかしくて厄介だ。現実の複雑さをそのまま受け止めること。そこからしか、優しさは生まれないのだと思う。