見える世界のズレ


ちょっと前に、渡り鳥に磁覚があることを知った。
すべての鳥にあるかどうかはまだ分かっていないようだが、渡り鳥は空の中に方向を指す模様が“見えている”らしい。
世界はひとつでも、生き物ごとに見えている世界は違う。
世界はひとつだけど、多層的な空間として存在しているのだ。

湊かなえ『人間標本』を読み終えた。


「なんて重たい本なのだろう」読み始めの感想はそれだけだった。
「何一つ共感できない」そう思いながら読み進める。でもその思いは、物語が進むにつれて何度も裏切られ、揺さぶられ、最終的には「どう転んでもこの結末は避けられなかった」という静かな必然へと収束していった。その筆致の力に圧倒されながら、同時に「見え方」について深く考えさせられた。

物語の中で語られる視点のズレ、語り手の信頼性の揺らぎ、そして紫外線を見るチョウの世界を人間が理解できるのかという問い。それらは単なる設定ではなく、「人は本当に同じ世界を見ているのか」という根源的なテーマにつながっている。

ヒトには通常三種類の錐体細胞があり、色の見え方はその組み合わせで決まる。
しかし、四種類目の錐体を持つヒトがいる可能性があり、そのようなヒトは同じ“赤”でも他の人とは違う色として見えているかもしれないという。

でも、ヒトはどんなに頑張ってもチョウのように紫外線を見ることはできない。
仮に紫外線が見える眼鏡をかけたとしても、網膜が紫外線で損傷し失明してしまう。紫外線を見ることは人間の構造上不可能であり、チョウの世界を完全に共有することはできないのだ。

見え方の決定的な違いは、ヒト同士の中にも存在する。
私たちが「同じ世界を見ている」という前提は、実は成り立つことなんてない。

同じ赤でも脳内の処理は個体差が大きく、色が言語で表される以上、私の観ている赤色のカテゴリーは、私の表現する言語によって限定されてしまう。そもそも、個々人に見えている「私の赤」と「あなたの赤」を比較する方法が存在しない。
私たちは、本当は違う世界を見ているのに、同じ世界を見ていることにして生きている。

言語が思考の枠組みをつくるように、見え方もまた思考を限定する。世界の切り取り方が違えば、感じ方も判断も変わる。そう考えると、単に多数派の感覚の平均値でしかないマジョリティが持つ“常識”で、測れない人がいることは何ら不思議ではないだろう。

私には、他の人にはできるのに自分には難しいと感じることがある。たとえば、

  • 生活の大半を仕事に捧げること
  • 誰かを怒ったり、強く指導したりすること
  • 深く人と関わること
  • 人混みや買い物に耐えること

そんな自分を「大人として不完全」と感じていたけれど、私には私の世界の見え方があり、その見え方に沿って生きているだけなのだと思うと、自分を否定する必要はないと思えてくる。

人間は同じ世界を共有している、その前提自体が幻想なのだ。

『人間標本』の中で、人間の標本を作ろうとした人物の行為は当然許されるものではない。しかし、その人が“そう見えていた世界”そのものを完全に否定することはできないと思う。

世界の見え方が違えば、価値観も判断も変わる。私たちは同じ世界を共有しているようで、実際にはそれぞれが異なる世界を生きている。その前提に立つと、他者の行動を単純に「理解できない」と切り捨てることはできないはずだ。

人間は、いや、この世に存在するものは、完全に理解し合えないのだという現実。

見え方の違いを前提にして自分と他者を見つめ直せば、一般的な常識の外にいる人を、否定ではなく受容する道が見えてくるのかもしれない。