そんなにこだわりのない人間だと思っている。
毎日のルーティンと一週間のルーティン、一か月のルーティンがそれぞれあって、可能な限りそれから逸脱しない生活を送ることにしているけれど、逸脱したら修正すればいいと思っているくらいで、何が何でも守らなくてはと思っているわけではない。
そうしなければならない理由も明確にはない。
そう思っていた。
でも、それは日常を護るための、無意識の防御だったのだと気づく。
一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』を読み終えて、ゾッとする感覚に囚われた。
読後の余韻というより、胸の奥に薄く沈殿するような恐怖。
誰も救われない物語。でも、そこに描かれているのは特別な悪意でも、劇的な事件でもない。(日常に起こってほしくない種類の出来事ではあるけれど。)
普通に生きようとしている人たちが、静かに崩れていく姿。
「普通に生きる」というのは、とても難しいことなのだと改めて思う。
私たちは、普通に働き、普通に人と関わり、普通に日々を送ることを当たり前のように受け止めて生きている。
劇的な事件を自分が起こすこともなければ、自分がその被害者になることもないと信じ、そんなことを気にも留めないふりして生きている。
そうでなければ、毎日を生きるのが難しくなるのだから当然だ。
一方で“普通”は努力ではなく、偶然や環境や他者の機嫌といった、脆い支えの上に成り立っていることもなんとなく分かっている。
穴はいたるところにあいていて、少し気を抜けば足を取られる。
誰にも危害を与えず、誰からも与えられずに生きることは、もしかしたら奇跡に近いのかもしれない。
「罪は簡単には消えない」ということを、私たちは他者に対してはよく知っているのに、自分に対しては知らないふりをしてしまうところもある。
誰かが過ちを犯したとき、私たちはその人の行為を完全に忘れ去ることはない。
「一度やったことはまたやるかもしれない」
「その人はそういう人だ」
と、あまり考えずに人にラベルを貼ってしまう。
他者の罪を、時間が経っても“消えないもの”として扱うことに違和感を持たない。
けれど、自分が誰かを傷つけたときはどうだろう。
「悪気はなかった」
「状況が悪かった」
「もう反省したから大丈夫」
そんなふうに、どこかで“帳消しになるはずだ”と期待してしまう。
自分の罪だけは、いつか薄れていくような気がしてしまう。
その甘さは、自己防衛でもあり、自分の物語を守るための本能でもあるのだろう。
でも、他者から見れば、自分の罪もまた“消えない”のだ。
その非対称性が、人間の怖さを生んでいる。
悪意ではなくとも、無自覚であっても、あるいは出来心でも、誰かを傷つけてしまえば、その傷を忘れてもらうことなど、かなわないものであるのに。
一穂ミチの小説は、その“ズレ”を劇的に描かない。
日常の延長線上で、静かに、淡々と、しかし容赦なく描く。
だからこそ、読者は自分の足元にも同じ穴があることを否応なく思い知らされる。
普通に生きることの難しさ。
罪の重さを他者には厳しく、自分には甘く見てしまう矛盾。
そのどちらも、私たちが日々の中で見ないふりをしているものだ。
この小説を読み終えたあとに残る“ぼんやりした恐怖”は、
その見ないふりをしていた部分に、そっと光が当たるから生まれる感情なのだろう。
