学生時代、もっと勉強しておけばよかった。
そう考える大人は多いけれど、私の場合、「物を知らないことで恥ずかしい思いをした」経験がそう思わせる。
知っていればもっとうまくやれたのに、と思うこともあった。
単純に、学ぶことは楽しいと気づいたということもある。
池上彰さんの『ぼくはこんなふうに本を読んできた』を読み終えて、深い驚きと出会った。
特に、 アメリカには反知性主義という長い伝統があること、そして国民の四分の一が福音派であることは衝撃だった。
「アメリカは合理主義の国」というイメージを持っていた私は、この二つの事実に強く揺さぶられた。
アメリカの反知性主義は、単に「知識を嫌う」態度ではなく、 エリートや専門家への不信 として現れるものだという。
「自分たちの常識のほうが正しい」という感覚が強く、そこに宗教的価値観が重なると、 “自分たちの世界を守ってくれるリーダー” を求める傾向が強まる。
福音派の人々は、聖書の字義通りの解釈や伝統的な家族観を重視し、 その価値観を守る政治家を支持する。
この背景を知ったとき、 「だからトランプ氏が大統領になったのか」 と腑に落ちた。
人は誰でも、限られた時間の中でよりよく生きようとする。 けれど、 何を信じ、何を学ぶかによって、“よりよく生きる”ための選択肢は大きく変わる。
「教育の大切さ」という言葉の重みが身に染みる。
学ぶ内容を選ぶのは個人の自由だ。
しかし、全国的な教育水準が確保されていなければ、その自由は実質的に存在しない。
教育格差が広がると、
- 学べる人と学べない人が分かれる
- その差が次の世代に受け継がれる
- 社会の中で“共通言語”が失われる
- 感情的な政治や分断が強まりやすくなる
という連鎖が起きる。
教育は社会の安定を支えるインフラであり、民主主義の土台だ。
アメリカの反知性主義の問題を見ていると、 教育の弱体化がどれほど社会を揺るがすかがよく分かる。 そしてそれは、決して他人事ではない。
この前の選挙でそのことをうっすらと感じた。
学びの深い人とそうでない人。
本を読む人とそうでない人。
新聞を読む人とそうでない人。
そうでない人の割合が大きくなっている現実がある。
「教育は未来を選び取る力を育てるもの」 であるから、学ぶことは、個人のためであると同時に、 社会全体のためでもある。
「誰もが学べる環境を守ること」 は、社会の持続性を守る行為なのだと感じている。

