午前中、外で過ごす用事があったからか、今日は花粉症の症状がひどい。どこからこんなに鼻水が生まれるのか不思議になる程、鼻水があふれ出てくる。
大人になるまで、花粉症とは無縁だったのに、三姉妹のうち私だけ花粉症に悩まされている。生活習慣がいけないのかといろいろ試してみたが、効果はあまりない。症状が軽くなる薬を見つけられたくらいだ。
私は私と付き合っていくしかないのだと、つくづく思う春である。
安藤寿康『生まれが9割の世界をどう生きるか』を、読み終えた。
この本が語る「遺伝ガチャと環境ガチャで人のほとんどが説明できる」という主張を、初めは受け入れがたかった。
「とはいえ、環境が人を作っていくでしょ?」という気持ちが強かったからだ。
でも、子どもを三人育ててきた経験を思い返すと、それは当然のことかもしれないと感じる。私の子どもは、生まれた瞬間から、それぞれがまったく違う存在だったという確信がある。
泣き方も、好みも、安心するポイントも、まるで別の物語を持って生まれてきたかのようだった。
そして一方で、私の子どもは確かに私の子だなと思う面もある。子どもは大なり小なり我が家の雰囲気をまとっている。
「遺伝ガチャと環境ガチャ」の影響を、それぞれの子に感じ取ることができる。
本の中で特に面白かったのは「平均への回帰」という統計的な現象だ。
両親の形質の中間に子どもが落ち着きやすいということ。そして、それが社会の中間に近づくということ。
突出したものも、極端なものも、次の世代ではふっと平均に寄っていく。その揺り戻しのような動きが、人間の営みの中にずっと存在していることが不思議だと思う。
「生まれが9割」と言われると、環境の意味が薄れてしまうように感じるかもしれない。どう育てようが変わらないなら、どうしてこんなにも子育ては大変なのかという思いも生まれる。
でも、「静かで落ち着いた生活の中で育つこと」や、「本の読み聞かせ」が知能や学力に良い影響を与えるという研究結果は確かにあるという。
能力は“自分の勘”を頼りに発現していくものらしい。それならば、読み聞かせる本は多様であるほどいいだろう。子どもが自分の興味に触れる機会を増やすことが、その子の「芽」が自然に伸びていく土壌になるはずだから。
社会の不平等が遺伝的な格差から生まれているのだとしたら、私たちができることは、自分の興味に心を澄ませ、自分の役割を見つけていくことだ。それができる環境を整えていくことは、ある程度必要だろう。
私は、たまたま「言葉」に強く惹かれる自分に早く気づくことができた。その興味に素直に従ってきた結果、今の道に立っている。これは、私が受け継いだ遺伝子の方向性に、私自身が静かに寄り添ってきたからこそ得られた今なのだ。
生まれつきの違いと、そこから続く選択の積み重ね。
「生まれが9割」だけれども、選択できる幅は広く持てるような環境を与えていく。それが、社会のひとつの在り方だといえそうだ。
