私の境界線はどこだろう。私の身体が私のものである条件とはいったいなんだろう。
最果タヒさんの『恋の収穫期』を読んだ。
舞台は22世紀の日本。東京では人間が機械化され、地方では通信機器すら使えない。そんな未来の断面を描いたSF小説だけど、読んでいる間ずっと「これは明日の私たちかもしれない」と思うリアルさがあった。
東京だけが未来を形成していく社会は、「コンパクトシティによる便利な社会」と「少子化による人材不足」が行きつく姿だろう。そんな社会で恋とは何かという問いが、登場人物の言葉のやりとりの中で少しずつ形を変えて浮かび上がってくる。
コントロールが行き届いた東京で、不確実な「恋」は無駄なものになるだろう。見捨てられた地方では、未来を思い描く必要性がなく、「恋」にかける情熱は薄れる。そんな社会では「恋」という単語は死語になっていくのかもしれない。
私がこれまで「恋だ」と思ってきたものは、本当に恋だったのだろうか。誰かを好きになるとき、私は私の意志で誰かを好きだと判断できていたのだろうか。自分の外側から突き動かされる力(子孫を残すための本能)に振り回されていただけのような気もする。わからない。でも、わからないままでいいか。気付いたときには抜け出せない状態なのが「恋」だろうから。
この物語の中で、東京に住む人々は機械化されている。感情も、選択も、アルゴリズムで決められる。人間の感情や選択までもが都市機能に吸収されるのは、「人間のため」ではなく、「効率のため」でしかない。
そんな未来が「あり得ない」とは言い切れないようである。実際、今の技術でも人間の寿命を150年に延ばす可能性があると語る学者もいる。その人は身体を機械化し、脳だけを残すことが可能だと言っていた。もし、そんな状態になったとき、私の中の「私」は確実に残して置けるものなのだろうか。
私が「私」であることの最小単位は顔?脳?記憶?意志?
どこまでが「私」で、どこからが「私ではない」のか。
もし、私の中に季節の記憶が残っていたら。
土の手触りを思い出せるなら。
誰かの言葉に、少しだけ胸が動くなら。
それは、まだ「私」なのかもしれない。
この小説を読んでいる間、日常の些細なモヤモヤを忘れることができた。未来の話なのに、現実と地続きの世界観があって、不思議な高揚感に包まれる。
