ハン・ガン『涙の箱』を読み終えた。
装丁の美しい本で、手に馴染む厚さと大きさが心地よく、眺めているだけで心が満たされる本だ。童話なので読みやすく、すぐに読み終えられるのに、読んでいる最中も、読み終えたあとも、胸の奥に静かな涙の川が流れ続けているような感覚が残った。
私は昔から涙もろい。テレビのバラエティ番組でも、新聞の記事でも、心が動かされると、すぐに涙があふれてくる。
けれど昔と比べ、「自分の中からだけ湧き出る涙」を、もう長いあいだ流していないと思う。自分の中の、痛い・悔しい・悲しいだけでは、涙が流れにくくなった。
それは、大人になった結果なのかもしれない。
子どものころは、いじめられたり、親に怒られたりするたびに、しゃくりあげて泣いた。涙も鼻水も止まらなくて、世界が涙でいっぱいになった。
でも今は、そんなふうには泣かない。いや、泣けないのだ。
泣くときは、静かに、じんわりとした涙が出てくるだけだ。
多くの大人が、きっとそうなのだと思う。大声をあげて泣けるのは、子ども時代の特権なのだ。
人が一生でつくれる涙の量は決まっている、と思えるほど、大人の私の涙はすぐに止まる。
涙の量は減り、一方で、涙の密度は濃くなった気がしている。
子どものころの涙は、感情の波に押し流されるように、次から次にあふれ出てはさらさらと、流れて行った。
大人の自分の涙は川のように流れることはない。その分、涙の一粒に宿る意味や記憶や痛みや優しさは、ずっと重くなった。
それでも、涙がとまらないこともある。
先日、幼馴染の子どもが交通事故で亡くなったと知ったとき、私はしばらく涙を止めることができなかった。
起こってしまったことへの理不尽さや、幼馴染の気持ちを想像し、涙があふれるのを止められない。その止まらない涙を感じながら、「泣くことしかできないのだ」——そう思った。
でもそれは諦めではなく、「自分ができることと、できないことの境界」を静かに受け入れた感覚に近かった。
誰かの悲しみの前で、何かをしてあげることができない。
ただ涙を流すしかない自分を、そのまま認めることしかできない。
でも、それは無力さや弱さではなく、誠実さなのだと思う。
大人になって流す涙は、自分の中の記憶や経験が共鳴したために流れる。それは誰かの痛みや願い、そして自分の過去の記憶まで抱きしめてしまう。
だからこそ、少しの涙でも、深く、重く、静かに心を満たしていくのだ。
