私が「正しさ」というとき、それは何における正しさなのだろうか。自分の中の道徳的規範か。世の中の普通か。それとも誰かが声高に叫ぶ枠組みだろうか。
そう考え出すと「正しさ」とは一概にこういうものだと言えないもののように思えてくる。そして「正しさ」が時と共に変化することを私はこれまで体験してきた。
私が通った中学校では、髪型の規定が今よりもっと厳しかった。男子はみんな丸刈り。女子は肩につかない長さにするか、長ければ結ぶこと。二つに結ぶ場合は三つ編みにすること。何のためにそうなっているのか分からなくとも、それが学校の中での「正しさ」だった。今から考えると、果たして、それのどこがどう正しかったのか判然としない。
「正しさ」は普遍的なものでも絶対的なものでもなく、至極曖昧な概念だ。
私のとっての「正しさ」があなたにとっての「正しさ」でないことは高い確率であり得る。私が「正しい」と思いながら真摯に向き合って来たことが、間違いであることに気づくことも少なくない。自分の信じていた「正しさ」が誰かを攻撃したり苦しめたりしていることすらある。
それでも、私たちは「正しさ」を求める。それがどんなものか説明できなくたって、「悪いこと」より「正しいこと」の方を求めるのがあるべき姿だと信じている。自分が所属している社会の中で、できるだけ正しい自分でいたいと思う。人からも正しい人だと思われたい。正しい人であることは、社会の中でうまく立ち回るためには必要不可欠な要素だと思う。
だからだろう。「正しさ」がなんであれ、だれからか正しいと言われれば、その姿勢は間違っていないように思える。
でも、ちょっと待って。今自分が実行している「正しさ」は本当に正しいと言えるものだろうか。私たちは常に「正しさ」について慎重に考ていく方が良いかもしれない。そう思える本と出会った。
「不適切にもほどがある」というドラマが話題になっている。コンプライアンスにがんじがらめになっている令和の時代へ昭和のおじさんがタイムスリップするというドラマだ。面白そうな設定だが、なんだか少し違和感を感じてちゃんとは見ていない。今は放送後にダイジェスト版を見ることができるドラマが多く、それで内容を追っているだけだ。
そのなかで、主人公が「働き方くらい自分で決めさせろ」と言うセリフがあったが、これがまさしくこの本の中に指摘されている「特権」のことだと感じて、違和感を感じていたものが何だったのか、腑に落ちた気がした。
「働き方を自分で決められる」のはそういう特権を持っている人だけだ。でも、その特権を持っていない人間は働き方を選べない。選べない人がいるから「働き方改革」は今まさに改革の一つとして推し進められているのだろう。
誰かが持つ特権をそれと知らずに振りかざせば、その裏で誰かが苦しむことになる。特権を持つ人間は、その特権を制限されてしまうと、その現状に我慢ができずに自分に生じた制限へ対する不満を声高に叫びたくなる。まさしくその状態がドラマに描かれていた。
まだ、ドラマは始まったばかりだから、どんな風に着地するのかは全く分からない。でも、特権を持つ者がその特権を制限されたことに対する息苦しさを訴え、特権を持たないものへ生きづらさを押し付ける形で終わるとしたら、このドラマを楽しんで見た人たちに、悪意のない差別を促すことにならないか少し気にかかっている。