歌は何でできているの


同じ言語を使っていても、話が面白い人とそうでない人がいる。分かりやすい人とそうでない人がいる。響く言葉を紡ぐ人とそうでない人がいる。分かり合える人とそうでない人がいる。誰かを救える人とそうでない人がいる。

私は圧倒的に前者になりたい。でも、それはなかなか難しい。

おススメ対象 高校生~大人

実在する恋人同士の心の中と日常をのぞき見しているみたいだ。不道徳なことをしている感じが拭えず、読んでいる間ドキドキする。

「みそひともじ」の中には31音しか含まれていないのに、どうして自分が選ぶ言葉と、この二人の歌人の言葉には埋められない距離があるのだろう。もどかしい。圧倒的な力の違い。生まれ持った言葉への感覚の違いがそこにある気がしてしまう。

そんな風に思っている時に、かつて自分が詠んだ歌を電話越しに読み上げられる体験をした。子どもが登校を渋り、塞ぎ込んでいたところに、不意にその歌は飛び込んできて、沈みこんでいた心に手を差し伸べられた気持ちがした。それは確かに自分が詠んだ歌なのだけれど、誰からか手渡してもらった歌のように思えた。短歌として手放しそれが確かな歌となり得たことで、どこからから何か別の力が加えられたのだと知った。

ただの言葉の羅列ではない。そこに調べが加わりしっかりとした歌となったとき、人知を超えた息がそこに吹き込まれる。だから、歌に私たちは心を揺さぶられその息を感じるために歌を詠み、読み続けているのだ。

31音を使って、歌として完成させる。そうすることさえできれば、歌は勝手に自立する。それは、なかなか容易にはいかないのだけれど、結局は手放す覚悟が必要なのかもしれない。

その覚悟がないうちは「その言葉、知っている」「その表現使ったことある」と思うような言葉さえ、そこに置かれているように私は言葉を置くことができない。

まるで、特別な言語を駆使しているかのように、二人の歌人が使う言葉は魅力的だった。