恋愛は疲れる


恋愛は面倒な活動だと思うようになってどれくらい経っただろう。

今は、自分の気持ちを誰かに押し付け、誰かに気持ちを押し付けられるのが億劫だと思う。

年をとったからだろうか。

いや、年齢は関係ないはずだ。いくつになっても恋をしている人はたくさんいる。誰かを恋しく思うのに、年齢は問題にならない。

年齢が関係ないとすれば、なぜ私の中でこんなにも恋愛が別世界のものになってしまったのか。

それはきっと、これまでの経験値が要因になっている気がする。恋愛の経験値だけではない、これまでのすべての経験値だ。

今、外は雪が降っている。ずいぶん暖かい冬だったから、今年の雪は珍しい。子どものころは、雪が降れば無条件に嬉しかった。でも、今はあの時ほど嬉しくはない。

雪が降ると車が汚れる。洗濯物が外に干せない。道路が凍結するのも心配だ。そして何より寒い。

これまでの経験から、そんなことを考えるからだろう。雪に対する喜びはもうあまり感じない。

たぶん、それと同じなのだ。

誰かを好きになり、恋が成就すると嬉しい反面、手間が増えることを私は知ってしまっている。相手と連絡をとったり、時間を合わせて会う約束を取り付けたり、相手のために何かやってあげたくなり、結果自分の時間を惜しみなく割いてしまうだろうことが分かっている。

もうすでに、私の時間の大部分は誰かのため(家族のいろいろ、地域のいろいろ、仕事のいろいろ)に使われてしまっているから、これ以上誰かに使う余裕はない。これ以上誰かのために使ってしまったら、自分の時間がなくなってしまうだろう。それでいい人もいるだろうが、私は自分の時間を出来るだけ多く死守したいと思ってしまう。

恋愛をすれば、きっとモヤモヤが増える。連絡が取れないのはなぜ?会えないのはなぜ?冴えない顔しているのはなぜ?そんな些細なことに、自分の気持ちが支配されてしまう。

モヤモヤはもう十分だ、というほどある。家事のこと、子育てのこと、ボランティアであるはずの役員のこと、仕事のこと、親のこと、自分の老化のこと。これ以上、モヤモヤが増えたら、対応できない気がする。

若いときは、恋愛なんてすごく面倒なことを、よくやっていたなと感心してしまう。

一方で、誰かを好きになると、毎日が楽しく、充実した日々になるだろうということも分かってはいる。

かつての自分にも、恋焦がれる相手がいた。物心ついてから「これが恋愛というものか?」と半信半疑なころから長い間、その時々に好きな人がいた。

その時期にたまたま出会った誰かを好きになり、夢中になってその恋心を失ったり、単純に熱が冷めたりして恋が終わっても、またすぐに誰かを好きになっていた。

ときめきに使用する感情が自分の中に、途切れることなく溢れていた。

あれは、生物に課された、子孫を残そうとする逃れられない欲求だったのだろう。

そんな欲求にどう対応していけばいいのか。その問いに対する答えのひとつがここにある。

大人女子の恋愛は、時としてやるせない。若いときの恋愛のように、無責任でいられない部分が増えるから、相手の嫌なところも見えてしまう。

でも、最後の最期にその気持ちは覆される。誰かを好きだと思うことは、そんなに悪いことではないな、と思うことが出来る本だった。