新聞でこんな文章を読んだ。
「政権批判に対し、嘲笑が飛び交うー。」
「事実に基づいて分析し、問題があれば論拠を持って指摘する。民主主義の基本であるはずの営みが、揶揄や冷笑にさらされる社会はどこへ向かうのか。」
この一節に触れたとき、胸の奥がひやりとした。私自身、いつの間にか「政権を批判的に見つめる目」を失っていたことに気づいたからだ。
批判することは、攻撃することではない。論拠に基づく政権への異論は、人格否定ではないはずなのに、その二つを混同し、批判そのものを「ネガティブ」なものとして扱っている自分に気づく。
同じ記事には、こうも書かれていた。
「主権者である私たちがしっかりと代表を監視し、必要なら批判の声を上げることが求められる。」
メディアリテラシーの必要性が叫ばれてずいぶん経つ。誰かを簡単に否定しないことを社会は十分に学んできた。けれど、人格を否定しないという意識が、「政権を批判しないこと」にも拡大解釈されている。
批判と攻撃を混同する空気は、社会の思考を細らせる。揶揄や冷笑に押され、ゆっくり考えることが難しくなる。そんな空気の中では、人は沈黙を選ぶようになる。沈黙が広がると、権力への監視も弱まり、民主主義の根が痩せていく。
この記事を読みながら、東浩紀『訂正する力』の一節を思い出した。
いまの社会は、ネットがあらゆるものを記録し続けている。言い間違いも、未熟な意見も、一時の感情も、これまでなら時間とともに薄れていったはずのものが、「痕跡」として残り続ける。忘れることが難しくなると、訂正することも難しくなる。訂正できない社会では、人は語ることを恐れるようになる。
何か言えば切り取られるかもしれない。過去の発言が掘り返されるかもしれない。文脈を無視されるかもしれない。そんな不安が、言葉を細くしていく。
これは、単なる個人の臆病さではなく、平和な社会の空気が少しずつ削られている兆しなのだと思う。平和な社会とは、「間違えてもいい」「言い直していい」「変わっていい」という余白がある社会だ。訂正できるからこそ、人は自由に語れる。語れるからこそ、権力を監視できる。監視できるからこそ、民主主義は健やかでいられる。
揶揄や冷笑が先に立つ空気の中で、私たちはその根源を少しずつ見失っているのだろう。
批判は攻撃ではない。
訂正は恥ではなく、語ることは、社会を守るための営みだ。
ネット社会の中で生きながら、そのことを忘れずに、
私たちが安心して訂正できる社会を取り戻すことは、果たして可能なことだろうか。
インターネットが可能にする自由を求めてきたはずの社会が、そのインターネットによって、じわじわと自由を搾り取られようとしているようにも見える。
