小説という余力・重力・器


野崎まど『小説』を読み終えたとき、私はしばらく「ぼんやり」としていた。

物語が終わったはずなのに、まだ現実に戻りきれない。小説そのものが「小説を読む行為とは何か」を問い続ける構造を持つから、読者自身を対象化し、閉じた本の中に声が響き続けるような余韻が残るのだ。

私は、何のために小説を読むのだろう。

『小説』の登場人物や展開は現実にはありえない形をとりながらも、人間の認識や記憶、創作の欲望といった根源的な心理を扱っている。だからこそ「不思議でありながら心理をついている」と感じる。何かがつかめそうで、つかめない感覚。あるいは、つかんでいるものが確実にあるのに、それが目に見えない感じを与えてくれる。

心を揺さぶられたのは「小説は星で人なのだ」という表現だった。
星は散らばりながらも重力で互いに引き寄せ合う存在である。それと同じように、人も孤立しながら物語に引き寄せられる。
小説はその「重力」で人を求心的に集める。あるいは、人の「重力」が小説を引き寄せる。
人が引き寄せられるということは、散らばる記憶や経験が、小説という中心に集まるということだ。そして、それがひとつの形を成すということだ。
だから、人は小説にひきつけられるのか。私を知るために。人というものを感じ取るために。あるいは、ここに存在していくために。

読み終えた後、「うまくまとまらない」感覚の中にいた。だがその揺らぎが、引き寄せられている状態でもあり、まだ小説が生きている証拠にもなる。

本を閉じ、ジムへ向かった。
ジムで体を動かしながら考えたのは、人の中に取り込めるものには限りがあるということだ。どれだけ鍛えても、身につく筋肉には限りがある。同じように、感情や経験も際限なく抱えることはできない。だからこそ、小説が「別の保存場所」として必要なのではないか。
書くことで感情を外部化し、読むことで他者の器に触れ、自分の器も増やせる。小説は「共有可能な保存庫」として働き、人が抱えきれないものを受け止めてくれる。それが、小説を読む一つの理由なのだろう。