我が家の末っ子は風邪をひきやすいく、かつ、直りにくい。
普段は元気なのだが、風邪の症状が出て熱が出ると、4日くらいは連続して学校を休まざるを得ない。
そんなとき、頭によぎるのは「入試に響くだろうな」という不安だ。
県によって違いはあるものの、公立高校入試では3年間で10日以上の欠席があると、合否に影響すると言われている。
健康優良児であることが前提になっているようで、そこから外れる子どもは社会から弾かれてしまうのではないかという、どうしようもない絶望的がわいてくる。
末っ子は、規則正しい生活をし、運動もして、手洗いうがいも徹底している。できる対策といえば「免疫ケア」を謳う何かしらの商品を摂取するくらいで、もはや本人の努力ではどうにもならない領域だ。
保坂亨『「休むと迷惑」という呪縛 学校は休み方を教えない』を読みながら、親としても、教師としても胸の奥にモヤモヤが残った。
言いたいことは分かる。休むことを肯定する文化が必要だという主張にも頷ける。けれど、読み進めるほどに「学校に求めすぎではないか」という感覚がどうしても拭えなかった。
学校は、そんなに万能な機関ではないはずだ。
むしろ、制度の中で動く“制約だらけの現場”である。
たとえば「休んでもいい風潮をつくれ」と言われても、そもそも高校入試が出席日数を重視する限り、学校だけが価値観を変えることはできない。
入試制度が変わらないまま、学校にだけ「休ませる努力」を求めるのは、構造を無視した議論に思える。
教師の働き方についても同じだ。
1人の教師が複数人のクラスを担当すれば、一斉授業が効率がいいのは当然で、そうなると、欠席した生徒への個別補習はほぼ不可能になる。
それができるのは、クラスが10人程度で、教師一人の担当クラス数も少ないという、現実とはかけ離れた条件のときだけだろう。
教師の数が足りない。
だから授業は進めるしかない。
だから欠席者のフォローは物理的にできない。
これは努力不足ではなく、構造的に不可能なタスクだ。
本の中で提案されていた「宿題をなくし、復習プリントを自由に使えるようにする」というアイデアには賛成だ。
生徒の自己調整力が育つし、教師の提出物チェックという負担も減る。
ただ、観点別評価が導入されてから、提出物チェックは“必須業務”になったように感じている。
提出物を根拠にしないなら、40人前後のクラスで、一人ひとりの観点をどうやって把握するのか。
一単位の科目もあるなかで、年間300人ほどの生徒の名前と特徴を覚え、個別に正しく評価するなんて、どうやればできるのだろう。
評価制度そのものが、現場の実態と噛み合っていない。
「休むことを肯定する文化」も、
「欠席者への丁寧なフォロー」も、
「個別最適な学び」も、
どれも学校だけの努力で実現できるものではない。
入試制度、教員配置、カリキュラム、評価方法。
こうした“外側の構造”が変わらない限り、学校現場がいくら努力しても、何も変わらない。
学校は万能ではないし、万能であるべきでもない。
その当たり前の事実を、もっと社会全体で共有する必要があるのだと思う。
