子ども時代の読書


子どもの頃に読んでおけばよかったなと思う本がたくさんある。
青い鳥文庫、岩波少年文庫などのシリーズは自分でも読んでみたかったけど、子どもが小学生に入ったときに、買っておけばよかったなぁと後悔している。


でも、本に使えるお金がなかったんだよね。残念なことに。

学校の図書館で『こまったさん』シリーズや『はれときどきぶた』は借りていたけど、やっぱり家にあった方がたくさん読んだだろうなと思う。読まなかったというより「出会えなかった」たくさんの本たち。
あの頃、児童書をたくさん読んでいたら、どんな私になっていたのだろうか。

松谷みよ子『ちいさいモモちゃん』を読み終えた。


名前はずっと知っていたのに、読むのはこれが初めてだった。

モモちゃんは天真爛漫で自由で、でも小さな子なりの思いやりがあって、読んでいると胸の奥があたたかくなる。黒猫のプーとも、ママともパパとも、魂が対等に触れ合っているような関係性が印象的だった。
子どもも一人の個人なんだ、という当たり前のことを、物語の中の空気が自然に思い出させてくれる。

モモちゃんは、ヒトではないいろんな物とも会話をする。
その姿を見ていると、私自身の子ども時代がモモちゃんの姿と重なってくる。
私は内気で自信がなく、大人から対等に扱われる機会もなかったけれど、物と会話できる子ども特有の感覚はあった。
あの頃の私のもどかしさや頼りなさ、やりきれない寂しさを、この物語はそっと受け止めてくれる。

特に心に残ったのは、ママの存在だ。
ママは優しくて完璧な母親というわけではない。生まれたばかりのアカネちゃんをモモちゃんにまかせて出かけてしまうような、気ままで大らかなところもある。
でも、モモちゃんの話もプーの話も、当たり前のようにまず受け取る。否定したり、子どもの空想として片づけたりしない。モモちゃんやプーの世界に寄り添っている。

不思議なのは、プーの声がママには会話として聞こえるのに、パパにはただの鳴き声にしか聞こえないことだ。
これはきっと、子どもの世界を信じられるかどうかの違いなのだと思う。ママはその世界に降りていける大人で、パパは外側から見ている大人。どちらが良い悪いではなく、ただ世界の見え方が違うだけ。でも、私はママのように、誰かの語る世界をまず受け取れる人でありたいと思う。

1974年頃の作品だから、言葉づかいにも時代の空気がある。「もうせん」という言葉が「ずいぶん前から」という意味で使われていたのが新鮮だった。
子どもの本だけど、使われている言葉は大人の言葉もある。本を読む子はこんな風に、本から自然とことばを身につけていくのだろう。

大人になってから読む児童書は、子どもの頃とは少し違う場所に届く。
あの頃の私が受け取れなかったものを、そのまま受け取ることはできないけれど、今の私がその一部をそっと拾い直す。そんな読書体験だった。