もう今は買えないが、木曽秀夫『ほしになったねじくぎ』のことを、大人になった今もずっと忘れられずにいる。
なぜ、この本が家にあったのか(本がたくさんある家ではなかった)、どうして忘れられないのかは分からないけれど、ずっと心に残っている本だ。
そんな本が子どもの本には案外多い。
記憶の中で古びない本。(自分のなかに残り続ける本。)
いつ読んでも古びない本。(作品そのものが普遍性を持つ本。)
そんな本が世の中には存在する。
一方で、どうしても古びてしまう本がある。
苅谷剛彦『知的複眼思考法』を読み進めながら、「思考力と批判的に読む力はどちらが先なのだろう」と考えていた。
著者は、読者が著者と対等に向き合い、批判的に読むことの重要性を説くが、その姿勢に至るまでには、やはり一定の読書量や知識が必要だろうと思い至る。なぜなら、批判するには比較する目がいるし、その目を持つには考える力がいるからだ。
では、思考が先なのか、批判する目が先なのか──たぶん、どちらも同等に身につけていくべきなのだ。
読み終えた今、その問いはさらに深まっている。
この本は20年以上前に刊行され、当然、その当時の知識人の価値観や社会の空気を強くまとっている。そのため、今の私から見ると、どうしても全面的に首肯できない部分が多い。複眼思考を説く本でありながら、著者自身が時代の制限に縛られているように見える箇所があり、その点に気を付けながら読むべき本だろうと思う。
人はどれほど知的であっても、自分が生きる時代の風潮から完全には自由になれない。むしろ「見えている」と思う人ほど、時代の偏りを無自覚に抱え込んでしまうのかもしれない。
古い本には「古さを意識しなくても読める本」と「古さを意識しないと誤読してしまう本」の二種類がある。
『知的複眼思考法』は後者に近く、当時の価値観や前提を理解しつつ読むべき本だった。
「この本は古びない」と思う本に、スヌーピーが登場する『ピーナッツ』がある。
半世紀以上前の作品だが、今読んでも「時代を考慮して読まなければ」と思うところがなく、時代の価値観に依存しない普遍性がある。
チャーリー・ブラウンの不器用さ、ルーシーの強さと不安、ライナスの信じる力、スヌーピーの自由さ──どれも人間の根源的な感情に根ざしていて、それを時代が変わってもそのままの形で受け取ることができる。
この対比はとても示唆的だ。
本が古びるかどうか。それはおそらく、「作品がどれだけ“時代の空気”に依存しているか」で決まるのだろう。
『知的複眼思考法』は当時の知の風景を強くまとっていたからこそ、今読むと思考の狭さが見えてくる。この本が古びて見えること自体が、むしろ「複眼的に読むとはどういうことか」を考えるきっかけになる。
『ピーナッツ』は人間の普遍性を描いたからこそ、今読んでも違和感を持たない。(すべてを読んだ経験があるわけではないので、断言するべきではないだろうが)
読者である私自身もまた、いまの時代の価値観に縛られている。
そのことに気づくこと自体が、複眼的に読むという営みになっていくのだろう。
