有吉佐和子『青い壺』を読み終えた。
昭和51年に書かれた作品で、戦中・戦後を生きてきた人たちの日常の物語。登場人物の多くは上流階級に属していて、価値観も生活の手触りも、今の私とは大きく隔たりがある。
その距離感が、最初は少し読みづらさを感じさせる。
けれど、ひとつの青い壺、青磁の経管が、焼きあがってからさまざまな人の手を渡り歩く流れを追っているうちに、時代や階層の違いがあまり気にならなくなっていく。
青磁を手にする人たちは、それぞれが違う日常を送っているが、その人々がどこかで繋がっている様子に少しずつ心が安らぐ。
「この世の中は断絶などしていなくて、全体が緩やかにつながっている」という思いがゆっくりと湧き上がってくる。誰かと出会い生きていくのは、偶然であり不思議で、その予想だにしない出会いの上に、私も生きているのだと、読み終えたときには静かな多幸感に包まれる。
読み終えたとき、私は歯医者の待合室にいた。
私の他には、幼い子どもを二人連れた夫婦が、順番を待っていた。
歯医者はだいたいの子どもにとって嫌な場所だ。今日の子どもも例外ではなかったようで、突然火がついたように泣いたかと思えば急に泣き止むというのを、何回も繰り返している。おそらく三歳くらいの子。
その激しい声と、読後の静かな感情がなぜか胸の奥で共鳴する。
人の人生の不思議さが胸に広がっていく。
病院中に響き渡る声で泣き叫んでいる子も、いつか大人になる。
その頃には「パパがいい」「ママがいい」と泣き叫んだ自分なんて、すっかり別の世界に置きざりにして、なんでもない顔で生きているはずだ。
歯医者にも泣かずに行くのだろう。
でも、今日のこの瞬間は、全身全霊で泣き叫ぶことが、自分を守る術なのだ。それは刹那的な感情である。
けれど、人は刹那的でありながら、同時に、地続きの自分の上にしか立てない。
いつか歯医者で泣かない大人になったとしても、それは泣き叫ぶ幼い今の上にしか存在し得ない。
人から人へと手渡される青磁の経管は、置かれた場所が変わるたびに新しい表情を見せる。けれど、どれだけ磨かれても、どれだけ別の家に移っても、そこに刻まれた時間を完全に消すことはできない。人もそれと同じなのだ。
偶然は必然の上にあり、必然は偶然の上にある。
その重なりの上に「生きていく」ということがあるのだと、子どもの泣き声を聞きながら、待合室でしばらく考えていた。
