休日。
もうその響きだけで心が休まる気がする。
休日。
明日まで頑張れば、それが待っていてくれていると思うと今日を何とか乗り越えられる。
休日。
それは大きく分けると2種類ある。
「有給の休日」と「無給の休日」。
子どもはみんな無給の休日だから、休日は無条件に嬉しいものだろう。でも、大人は違う。多くの大人は無給の休日を好まない。だって、休めば休むほど収入が減ってしまうもの。
休めるのは嬉しいけれど、収入が減るのは嫌だ。結果、無給の休日を存分に楽しむことは難しくなる。無給の休日が終わる頃、休んでいたその時間、何も対価を得られなかったことを振り返り、絶望的な気持ちになってしまう。
いや、無給の休日のすべてが耐えられない時間というわけではないはずだ。
休日の期間が重要なのである。1日、2日なら、無給の休日もあまり問題にならない。でもそれが積み重なっていくと大問題だ。
私はこれまで、何度か長い無給の休日を経験してきた。収入のない期間が長くなればなるほど、活動する気持ちが削がれていく。人間、何かをしようとすると高い確率でお金がかかる。移動すれば交通費がかかる。出かける格好を整えるためには、それなりの衣服費が必要だ。出先で飲食すれば、それは当然割高になる。
そんなことを考え、「家で家庭菜園でもやろうか。家計の足しにもなるし。」とホームセンターへ行けば、買わなければならないものが多すぎて、野菜を買うより高くつくことを思い知る。初心者にとっての家庭菜園は、娯楽にしかなりえない。
何をするにしても、お金は必要なのである。だから無給の休日は心が休まらない。心が休まらないと体も休まらず、休日のありがたみは全くなくなってしまう。
休日がありがたいものであるためには、有給でなければならないのだろう。
これは、実行不可能な実験としか思えない書名だ。
でも、実際に6年間にわたる連休を体験した記録である。
2000連休。もうそこまできたら、果たしてこれを連休と呼んでいいのだろうか?という疑問はひとまず置いておく。
現実的でない連休を与えられると、人は次第に哲学を始めるようだ。その実態が興味深い。
「あれ?これ、前読んだあの本に書いてあったな」という内容も目にする。2000連休あると、人は勝手に己の変化から研究結果を導いていく。人に関するいろいろな研究書に記してある結論に、己の体験だけで行きつくことができる。
「ああ、子どもの頃は言葉にできなかったけれど、そんな風に私も感じていたよ」と共感するところも多い。無給の休日を謳歌していたはずの子どもの自分が、漠然と感じていたモヤモヤがそこに記してある。
なんだ、大人も子どもも同じじゃないか。子どもだから無条件に、無給の休日を満喫できるわけでもないのだな。