ワタリドリに惹かれる


寒い季節が近づくと、渡り鳥の姿を目にする機会が増えていく。今年はとにかく夏が長く、一体冬はいつやってくるのだろうと思っていたが、渡り鳥たちは例年通り渡ってきたようだ。でも、私は鳥の専門家ではないから、細かな違いは分からない。もしかすると事実はいくらか違うのかもしれない。

ああ、渡り鳥の季節だなと感じ始めて、川面が賑やかになる。朝日が差し込む中を旋回する鳥の数が少しずつ増えていく。それが大群となるまでにそう時間はかからない。

家の外に出れば、目にしない日はない渡り鳥だが、移動手段が車以外ない私には少し遠い存在でもある。徒歩で移動するかあるいは散歩を習慣にしていれば、鳴きながら羽を休める渡り鳥の姿や、集団で飛ぶ際のその羽音の一つ一つまで感じることができるだろう。車ではそれを感じることができない。私はたいへんな機会を逃しているのかもしれないと、出勤途中の車中で何度思ったか分からない。

でも本当にまれだけど、庭作業をしているときに羽音が上から聞こえることがある。上をみると、5羽の鳥がきれいなV字になって飛んでいくのが見えたりする。その瞬間、ぐっと静寂が深まる。鳥の羽音が聞こえる環境に生活できている現状に感謝したくなる。そんな渡り鳥の姿を見ることができるこの季節は、特別な季節だ。それぞれの集団の違いやその名前や生態を知らなくても、今年もはるか遠くから渡って一冬を過ごし、そしてまた渡っていくその姿に、溢れる生命力を感じずにはいられなくなるのだ。

思い思いに川面に漂う姿も、岸辺で丸くなり休んでいる姿も、大きな集団が一斉に飛び立って、誰が先頭に立つのかが決まらずにだんご状になって飛び回る姿も、今生きているのだという実感に溢れている。渡り鳥よりずいぶんと大きい体をしている私は、こんな機械に頼って移動するしか術がないのに、その移動距離より遥かに長い距離を両翼の力だけで移動していくなんて。ナビがなければ行きたいとこへも行けない私に比べて、迷いなくここへきて、そしていづれ帰っていくことができるなんて。お金を出して棚から籠へ入れることでしか食べ物を得られない私と違って、変えの効かない嘴一つで自分を満たす食糧を得ることができるなんて。なんて潔い生き様なのだろう。

そんなことも含めて、渡り鳥に惹かれてしまうのだ。